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「過失」論議と「医学的準則」の意味について

2008年09月06日 17時21分31秒 | 法と医療
一部法曹とか某○弁護士あたりに、過失論について疑義が生じているかのようです。今後、専門家による検討がなされていくものと思います。


私の素人的理解で申し訳ないが、また書いてみます。

過失論というのは、平たく表現すれば、
◎注意を払っておけば、どういう結果を生じるかを予見でき、~を回避できたはず
→なのに、その注意を怠っていたので、こういう結果を生じたのだから、注意義務違反


また簡単な例で考えてみます。

a)後ろを見ずに車をバックしたら
b)後ろに人がいることに気付くことができず
c)人を轢いてしまった

この場合、「後ろを見ずに車をバックしたらどうなるか」ということが事前に想定でき、通常人であれば容易にその危険性について認識できたものと考えられます。b)の「後ろに人がいることに気付けなかった」ことの理由が、「後ろを見ていなかったから」ということであり、それが「普通はできない」レベルの注意ではない、ということです。誰でもできる水準の注意だ、ということです。で、「後ろさえ見ていれば、まず間違いなく轢くことにはならなかった」という結果が予想されるので、結果を回避できたであろう、という理屈でありましょう。

A)後ろを見て車をバックすれば
B)後ろに人がいることに気付くことができ
C)人を轢くことは(まず)ない

ということです。
「後ろを見ない」という選択によって、「後ろに人がいる→轢く」という結果を生じる危険性について、予見できるか否か、ということが重要です。そんな結果を招来するとは「事前には誰も想定できない、判らない」ということであれば、「予見不可能であった」ということになります。しかし、普通の人であれば「誰でも判るよ」ということであるので、=予見可能性はあった、と判断されるでしょう。

この例というのは、予見さえできていれば「相当程度の確からしさ(ほぼ全部に近いくらい)で結果を回避できた」という、結果回避可能性との関連性が高いことがらです。これが最初に書いたことの意味であり、注意を払って(=後ろを見る)おけば、轢くのを回避できたはず、ということです。なのに、後ろを見るという注意を怠っていたので義務違反、という理屈だろうと思います。


今度は医療ではどうなのか、ということ考えてみます。

例えば「膏肓」(笑)に病変があり、これを適切に処置できなかったので死亡した、とします。
過去の知見からは、
ア)膏肓の病変が診断できた例がある
イ)膏肓の病変に対して処置Xを行って助かった例がある
ということが判っているとします。

すると、診断が可能であったかどうか、処置Xを行うのが必然であったかどうか、ということが問題となるでしょう。
有能な医師であれば診断し得た、同じく、有能な医師であれば処置Xを行い得た、ということであれば、予見可能性も回避可能性もあった、という立論は可能でしょう。現実に、「回避している例」が存在しているからです。
しかし、上記例で見た如くに「通常人であれば」という水準と同程度に行い得る事柄であるかどうか、ということが問題なのです。8割か9割方の場合に「後ろを見てバックするよ」ということが言えるのであって、逆に言うと「殆ど皆がそういう注意をして行為をやっている=結果を回避している」のに、それを怠っていた(=後ろを見ないでバック)のだから注意義務違反ですね、ということに他ならないのです。
医療であっても同じように考え、8割か9割方の人(この場合では医師)が、「後ろを見てバックするよ」というのと同程度の水準のことができていなければならない、ということです。「膏肓の病変」について診断できる、処置Xを行える、というのが、(その分野の)圧倒的大多数の医師(他の例でいう通常人に該当)にできないような水準であるなら、それを「医学的準則」とすることはできず、そういう義務を課すことはできない、ということです。

車の事故の例で言えば、「ラリードライバーは回避できたよ」とか「F1レーサーなら回避しているよ」といった通常人でない水準の人が行い得た行為を、一般の人たちに適用してしまうとなれば、多くが義務違反を問われることになってしまう、というのと同じようなものです。「4輪ドリフトができていれば回避できた」とか判決で言われてしまったら、そんなご無体な…、と誰しも思うはずでしょう。


予見可能性とか(結果)回避可能性というのは、通常人に可能かどうか、という水準であるべきであり、通常人というのは建築士なら建築士全般、航空機パイロットなら同業パイロット全般、そういう人たちに通用しているレベルでなければならない、ということでしょう。もっと平たく言うと、「他の皆なら当然にわかるはずだよ、だからこうしている(=求められる水準)ので回避できるよ」ということです。泥濘の上に建築物を建てれば、後で大きく傾くだろう、ということは建築士ならば誰でも判る(予見できる)よ、それなのに泥濘の上に何らの対策もせず建てたのは義務違反、とか、そういうのと同じようなものだ、ということです。

これまでの裁判例では、「通常人であれば」という前提があまりにも当たり前すぎて、そのことの検証を省いて適用されてきていたことが多かったのではないかと思いますが、医療における刑法上の過失を考える上では「通常人」に相当する基準というのが、福島地裁判決で判示された「医学的準則」ということになるかと思います。


ところで、コンニャクゼリーの和解が成立したとのことらしいですが、あれも「過失」を詭弁的に適用すれば、「こういう結果になるかもね」と怖れていた通りになってしまった、ということではないかと思います。

参考:コンニャクゼリーの問題と裁判を考えてみる

この中で触れましたが、「予見できたハズ」というのは、「他の食品と比較してどうか」ということが問題になると思うのですが、所謂「超人的」水準でならば「防げるはずだ」ということになり、この論理が通用することになれば、殆ど「全ての食品」で窒息死した場合には過失を問える、ということになるかと思います。

レンタカーの判決(コレ→レンタカー会社の賠償責任)みたいなのもそうですし、本件和解もそうですけれども、共通するのは(乱暴な表現で書くと)「会社は金を持っているんだから払えるはずなので、遺族が可哀想だから払ってやれ」みたいなことです。

コンニャクゼリーで死亡した人よりもモチで死亡した人の方が圧倒的に多いことや、モチを除外したとしても、その他食品で死亡するか、異物の誤嚥で死亡することは起こり得るのです。その危険性は回避できないとしか思えないのですが、何故かコンニャクゼリーだけは回避可能だ、ということなのでしょう、きっと。

10年前にコンニャクゼリーが消滅していれば死ななかった、とか言うのは、10年前に危険な浴槽が消えていれば死ななかった、とか、10年前にモチが消えていれば死ななかった、といった言い分を認めろということになってしまうのかもしれません。