以前の記事(教育は格差を再生産するか~その2)に敢えて「日本人」と「ケニア人」という比較にして書いたのですが、これは若干の意図がありました。中には、「人種にどんな意味があるんだよ」という批判もあるからですね。確かに、全部のDNA塩基配列を比べてみても、人間の中での「人種差」というのはハッキリとは判っていませんね。「判っていない」ことと、「差がない」ということは明らかに違うことなのですけれども。それでも、世界人類の平等を掲げるのか、差別を無くそうという運動の一部なのかよくわかりませんが、「人種差」を検討することに意味はない、とか主張する方々がおられたりします。
何度か取り上げている『ヤバい経済学』ですけれども、この中では割とハッキリと「白人」「黒人」「ヒスパニック」という具合に区別して検討されています。「クロい名前」や「シロい名前」とまで書かれているのですけどね(笑)。経済学的な分野であっても、「人種差」によって比較することがある、と言えます。これは殊更差別を肯定しているとか、差別はあってしかるべきといったことを支持するものではないことは当然ですね。でも、遺伝子的な要因なのか、後天的・環境的要因なのかは不明だが、例えば「学力に差がある」ということは現実に検出される訳です。その事実は受け入れる他ないと思えます。これは人種の厳密な生物学的定義ということよりも、比較検討する際の単なる「区分」であり、研究者の「定義付け」(意味を持たせるに妥当かどうかは評価はあると思いますけれども)によって区分可能です。
人種間で、例えば血液型や持っている体内酵素の種類や比率などが異なることは知られており、母集団を比較すれば差が認められることも有り得る、ということです。なので、黒人と日本人という母集団を比較した時、何かの能力とか身体的な特徴とか、そういう部分で差があっても不思議ではないでしょう。説明力を持つのが「人種差」という場合もある、ということです。「人種なんてそもそも存在しない」と言われれば、「ソーデスカ」と言うしかないですね。
日本での人種差別はアメリカほどではないので、私が日常生活の中でハッキリと感じることは少ないです。ですが、ネット上では多少観察されると思います。私は、「菊の花」が様々な色とか形とかあっても不思議ではないし、香りとか葉っぱのつき具合とか背丈とか、そういう違いがそれぞれの魅力であったり特徴としてあってもいいと思えます。別に、「みんな平等」である必要性なんて感じないですね。でも、差別だ、とか主張する人というのは、それらは全て「同じ菊」でなくてはならない、と思っているのでしょうか?ちょっとよく判らないんですが。個々の魅力があって、背丈が伸びる種類であるとか、臭いがクサイとか、花びらは地味だとか、葉っぱがチクチクするとか、そういうのは別にいいと思いますけど。「差がないんだ」とか主張する人というのは、逆にそのこと自体が差別的であることを助長しているようにも思えます。そういう意図ではないにせよ。「黒人」という人種を認めることは、ダメなんでしょうか?「クロい家族」「クロい名前」とかはダメなんでしょうか?私は別にいいじゃん、とか思ってしまいますけど。多様性の一部に過ぎないじゃありませんか。
『ヤバい経済学』の中では、ローランド・G・フライヤーJrの例があったけれど(無名のハーバード大の黒人研究者だ)、白人の例としては「ユナボマー」として知られる男―「テッド・カジンスキー」と言う―が書かれていた。要するに、どんな遺伝子か、どんな生い立ちか、どんな家族に囲まれてどんな教育を受けたか、そういうのは確かに大事だけれど、個々の人生は「確実に存在」しており、人種差・母集団の差なんて運命を切り開ける意志があれば、乗り越えられるし変わっていくものなのだろう、と思う。そうでなければ、著者たちがわざわざフライヤーとカジンスキーの例を取り出してはこなかったのではないかとも思っている。
母集団の平均的な差の意味と、個々の人間は違うのだよ。日本人には、確かにNFLのスター選手を目指すのは不向きかもしれず、黒人よりも比較優位には立てないかもしれない、ってことは判るだろう。要するにそういうようなもんだ。この時、「日本人」「黒人」というのは、一般的に言ってるだけで、中には飛びぬけた才能を持つ人間が現れて、日本人でも成功できる人が現れるかもしれないですよ。そういうことです。
何度か取り上げている『ヤバい経済学』ですけれども、この中では割とハッキリと「白人」「黒人」「ヒスパニック」という具合に区別して検討されています。「クロい名前」や「シロい名前」とまで書かれているのですけどね(笑)。経済学的な分野であっても、「人種差」によって比較することがある、と言えます。これは殊更差別を肯定しているとか、差別はあってしかるべきといったことを支持するものではないことは当然ですね。でも、遺伝子的な要因なのか、後天的・環境的要因なのかは不明だが、例えば「学力に差がある」ということは現実に検出される訳です。その事実は受け入れる他ないと思えます。これは人種の厳密な生物学的定義ということよりも、比較検討する際の単なる「区分」であり、研究者の「定義付け」(意味を持たせるに妥当かどうかは評価はあると思いますけれども)によって区分可能です。
人種間で、例えば血液型や持っている体内酵素の種類や比率などが異なることは知られており、母集団を比較すれば差が認められることも有り得る、ということです。なので、黒人と日本人という母集団を比較した時、何かの能力とか身体的な特徴とか、そういう部分で差があっても不思議ではないでしょう。説明力を持つのが「人種差」という場合もある、ということです。「人種なんてそもそも存在しない」と言われれば、「ソーデスカ」と言うしかないですね。
日本での人種差別はアメリカほどではないので、私が日常生活の中でハッキリと感じることは少ないです。ですが、ネット上では多少観察されると思います。私は、「菊の花」が様々な色とか形とかあっても不思議ではないし、香りとか葉っぱのつき具合とか背丈とか、そういう違いがそれぞれの魅力であったり特徴としてあってもいいと思えます。別に、「みんな平等」である必要性なんて感じないですね。でも、差別だ、とか主張する人というのは、それらは全て「同じ菊」でなくてはならない、と思っているのでしょうか?ちょっとよく判らないんですが。個々の魅力があって、背丈が伸びる種類であるとか、臭いがクサイとか、花びらは地味だとか、葉っぱがチクチクするとか、そういうのは別にいいと思いますけど。「差がないんだ」とか主張する人というのは、逆にそのこと自体が差別的であることを助長しているようにも思えます。そういう意図ではないにせよ。「黒人」という人種を認めることは、ダメなんでしょうか?「クロい家族」「クロい名前」とかはダメなんでしょうか?私は別にいいじゃん、とか思ってしまいますけど。多様性の一部に過ぎないじゃありませんか。
『ヤバい経済学』の中では、ローランド・G・フライヤーJrの例があったけれど(無名のハーバード大の黒人研究者だ)、白人の例としては「ユナボマー」として知られる男―「テッド・カジンスキー」と言う―が書かれていた。要するに、どんな遺伝子か、どんな生い立ちか、どんな家族に囲まれてどんな教育を受けたか、そういうのは確かに大事だけれど、個々の人生は「確実に存在」しており、人種差・母集団の差なんて運命を切り開ける意志があれば、乗り越えられるし変わっていくものなのだろう、と思う。そうでなければ、著者たちがわざわざフライヤーとカジンスキーの例を取り出してはこなかったのではないかとも思っている。
母集団の平均的な差の意味と、個々の人間は違うのだよ。日本人には、確かにNFLのスター選手を目指すのは不向きかもしれず、黒人よりも比較優位には立てないかもしれない、ってことは判るだろう。要するにそういうようなもんだ。この時、「日本人」「黒人」というのは、一般的に言ってるだけで、中には飛びぬけた才能を持つ人間が現れて、日本人でも成功できる人が現れるかもしれないですよ。そういうことです。