いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

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歴史とは、誰かの物語だよね

2006年08月07日 20時57分59秒 | 俺のそれ
最近色々な場面で出くわす言葉がある。「歴史認識が~云々」「歴史的な解釈は~何とか何とか」という具合に、「歴史」という言葉を何度も目にする。古くから、人類の歩みを記した歴史家たちは多く存在した。それらの記述は、伝説や言葉などの由来としても残っている。昔から、人間の考えようとすることには共通性があるのか、それとも彼らが遺してきた歴史的記述を学んだ結果なのか、それは判らないが、歴史というのは、必ず人間の物語なのであり、大河ドラマと何ら変わらないのだと思う。


後世の研究者たちは、揃えられるだけ資料を揃えたりして、情報を細かく集め分析できる。なので、何かの出来事の理由を考える時、そういった状況証拠のようなものを使って、もっともらしい理由を考え出す。それはきっと正しい部分もあるだろうと思う。だが、当時の「現在進行形」で直面している人々は、全ての情報を知っている訳ではないし、相手の取ってた行動とか心情とか思惑なんかは見通せないことの方が多いはずだと私は思っている。それ故、登場人物としては、たとえ重要な判断であっても、個人個人が「いい加減」に行ったりするしかなかったりするし、賭けみたいな一か八かということも多々あるだろうな、と思う。それが後世になれば、「~~の理由があったから」とか、「○○を行うのは必然だった」とか、分析されたりするのだけれども、当の本人がどの程度知っていたか、考える能力があったか、判断材料を持っていたか、というのは、案外正確には判らないものなのではないだろうか。


また変なたとえ話をしてしまいますが、我慢して下さいね。


昔、ある男Mに好きな女の子がいたとしよう。仮に中学生としよう。Mはある女子生徒Aが好きで、何とか自分に振り向かせようと、考えていたとする。そうだな、掃除のバケツの水をワザとかけて、「ゴメンね」とか何とか言って、話すキッカケを作り、その後の展開を狙っていたとしよう。水だからかかっても大したことないだろうし、少ししかかけなければ大丈夫だ、と。で、水をかけた後で、ズボンのポケットからハンカチを取り出して、優しく拭いてあげれば好感度がアップする、なんて自分勝手な都合のいいストーリーを描いていたとしよう。

女生徒Aは、Mがこんなとんでもないストーリー(笑)を妄想しているなんてことは露知らず、無防備に歩いているわけです。Mが自分に好意を抱いていることさえ知らないのですね。ここに情報の不一致というか、偏在というか、自分は知ってるが相手は知らない、という状況があるのです。で、まんまとMの待ち受ける廊下の先へと歩いて行ってしまい、バケツの水をかけられることになるのです。


物事がシナリオ通りに運ぶことは少なくて、想定外の事態が起こりがちなのですね。不思議なんですけど。
Mは凄く緊張して待っていたのですが、あまりに緊張しすぎて、自分の腕のコントロールも力のコントロールも失っていて、かけるバケツの水の量をコントロールすることもできなくなっていたのですね(笑)。なので、バシャっと、本当にずぶ濡れみたいに、たくさんかかってしまったのです(これをとりあえず、「ずぶ濡れ事件」と名づけることにしましょう)。

何となくわかりますよね、こういうの。微妙な筋肉のコントロールを失いがちなのは、経験したことがある人はいるかも(スポーツで、プレッシャーのかかる場面で、それに近い経験をされた方はおられるかもな、と)。

AはMに水をしこたまかけられて、「ウッソー!!信じらんなーい!!何これ?死んじまえ、ウスノロ腐れオトコ!!」と罵詈雑言を浴びせ、呪いの言葉を吐くことになってしまったわけです。いつもなら、これほど怒りの言葉を言わなかったかもしれません。しかし、この時ばかりは、違ったのです。

実は、今日はAの親友Bの誕生日で、その子の家に何人か友達が集まることになっていて、その中にはAのお気に入りのC君も来ることになっていたのです。でも、そんなこととはMは知りませんから、こういう無謀な計画を実行してしまうことになってしまったのです。しかも、Mはその後のフォローが全くうまくできず、「ご、ご、ご、、ごめめんネ、だだだいじょいうぶうう・・・」と変態チックな発語になってしまい、更にキモく思われてしまったりするのです。これも緊張のせいなのですけどね・・・・


Mは計画を練るにあたり、周到に準備していたはずだったのです。親しい友人たちには、「な、Aって付き合ってる男とか、いるのかな?」とか情報を集めたりして、Aには彼氏がいないことも知っていたし、ここ半年以上は告白した様子もないということも、「特別な男子」の存在を疑わせるような噂話もないということも、知っていたのです。でも、全ての情報を知っていたわけではなかった。Cという男子を好きだというのも、今日Bの家に集まる日だということも知らなかった。しかし、もしも知っていたら、初めからこんな馬鹿げた計画は実行しなかったかもしれないし、Aのことを諦めていたかもしれないし、もっと別な計画に変更していたかもしれないということです。

Aにしても、もしもMが好意を抱いていると知っていればCに関心を寄せなかったかもしれないし、Mの計画を知っていれば当然「ずぶ濡れ」を避けることもできたでしょう。「ずぶ濡れ事件」の発生は未然に防げたでしょう。


こういうのを事後的に考える場合、いくつかの状況証拠から事件を組み立てることになります。歴史学者と同じく、「全て」の情報を知るわけでもないですから、どういう筋書きが想定されるか判らないのですよね。

仮に、
・Aの友人Bは、Aが「Mはキモい、ウスノロなオトコ、と語った」と日記に書いていた
・Mは友人に「大失敗した」と語った
・Mのクラスメートは「ずぶ濡れ事件」の様子を、傍目で見たまま書いていた

という記録があった場合に、MがAのことが好きで事件を起こしたかどうかは、後であんまり判らなかったりするのですよね。
Bの記録を見れば、あたかもAがMを前から恨んでいたかのようにも思えたりするし。逆に、MがAに良からぬ感情を持っていて、その恨みを晴らす行為であったのではないか、もっと酷い仕打ちを考えていたのかもしれない、とか。当事者じゃないのに、Bが勝手な解釈や脚色をしてたりして、日記に書いたてたり、とか(女子にはありがちなんじゃなかろうか?と思ったりします、笑)。案外真実は、当人たちでさえ正確に判らなかったりするんじゃないのかな、と。要するに、物語を「作者の視点」から見ることができるような場合じゃないと、正しい情報も判断したワケも知り得ないし、本当のことというのが判らないのではないかな。


このように考えると、どんなささいな出来事であろうと、歴史的大事件だろうと、人間が生み出すのであり、そこには全ての関係者それぞれに物語があり、どこでどのような繋がりになっているか、誰が何を知っていて何を知らなかったか正確には判らないけれども、何かの「ドラマ」みたいなのが横たわっているのではないでしょうか。例えばある重要人物が殺された理由というのが、意外に、殿様の「奥方」から嫌われている部下だったから、とか、奥方の一番嫌いなオンナ(お姫様?)がたまたま好きになった男だったから、とか、そういう予想もつかないようなトンデモナイ理由が隠されているかもしれない、ということです。

なので、歴史研究というのは、人間をより理解しようとする試みなんだろうな、と思う。登場人物のいい加減な考えや勝手な行動とか、適当な判断とか、何がどれに繋がるかは判らないけれども、そういうものの組み合わせ・積み重ねの中で何かが起こってくるのだろう。登場人物にできる限り近づくことができれば(あるいは再現できれば)、謎の一部は見えてくるかもしれないですね。そういう物語性にこそ、意味があったりするんじゃなかろうか、と思えるのです。