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「現代日本教養論」を読む

2006年08月06日 18時54分47秒 | 俺のそれ
大袈裟なタイトルになってしまってますが、単にネット上の記事を読んだだけなんですけれど・・・笑。

まだ最終回にはなってないので、どういう結末が待っているのかは不明なのですけどね。ネット上で割りと知られた稲葉、山形両氏が対談しているという企画なのです。

東洋経済オンライン 東洋経済オンラインマガジン 現代日本教養論


前半は東氏の「動物化」論を軸に進んでいますが、稲葉氏の「3項図式」というのが出てきたので、ちょっと気になって取り上げました。これって、どこかでお目にかかったような・・・・とお思いの方は中々です(笑)。宮台氏が引き合いに出していた、丸山眞男の「3元図式」と極めて近いのではないのかな、と(大衆は何に対峙しているのか(追記後))。稲葉氏はインテリ・大衆ともう一つを「ヘタレ中流インテリ」と呼んでいますね。丸山は「亜インテリ」としていたようですけれども。両者においては、その意味合いも役割も違うのかもしれませんが、発想的には非常に近いですね。


「2項対立」の図式というのは、簡明であるが故に割と用いられ易いかもしれない。「右翼―左翼」「賛成―反対」「大衆―インテリ」という具合に、2つに区分してその違いを示すことは、基本的な構図と言えそうだ。その中間に、ある「不明瞭な存在」を定義することによって、曖昧さをカバーすることもできるし、何かの特定の役割を担わせたり、原因をそこに求めさせることも可能となるように思える。その存在自体は、実際には明らかにはできないのではないかと思えるけれど。


2項間にグラデーション的に配置することによって、「濃い―薄い」の2項だけということではなく、「濃度勾配」のような、より「現実に近い」曖昧さを表現することが可能になる、ということでもある(参考記事:「web」は「structure」を超えられるか・その2)。社会において、全ての事柄を「2項対立」で処理したり考えたりすることは、余りに難しすぎるからだ。「好き―嫌い」「はい―いいえ」のような組み合わせで、かなりの条件設定はできるかもしれないが、それだけでは答えが見つけられないことが多いと思う。なので、曖昧さを担わせる存在として、2項の中間に追加することは便利なのではないだろうか。仮想の役割を担える存在であることも、その便利さを増すだろう。


「ヘタレ中流インテリ」というのは、まさにそういう存在である。山形氏は『何となく、中ほどの位置にいるのでしょうね。そうすれば、「自分は上ではないから……」といって謙遜もできるし、他方で下のほうの人たちに対して優越感も持てる。いわば、いいとこ取りをしているような気もします。』という風に述べており、これって本当は「インテリ」のやや崩れた人々なのかもしれないし、「インテリ」になり切れなかった「大衆」でしかないのかもしれない。分類としては、どっちでもいい、とも言える。要は「定義の問題」ということに過ぎないのではないか。所得階層を「富裕層―貧困層」と2つに分けるのか、これに「中流層」を追加して3項にしているのか、ということの違いみたいなものだ(現実の社会構造を見れば、3項の方が説明しやすいことは確かだと思う)。



初めの「教養とは何か」論に戻るが、この対談の終わりまで読まなければどのような結論が出されてくるのか、私には全く判らない。そこで、自分の思っている「教養とは何か」ということを書いておこうと思う。



一言で言ってしまえば、「地図帳」のようなものなのではないか。人それぞれで違う、「自分だけの地図帳」だ。カーナビのようなものと思ってもいいかも。専門家になればなるほど、凄く細かく書いてあるのだ。でも、一般の人にはそんなの必要がないので、大雑把に書かれていればいいのだ。だって、そうでしょ?普通、カーナビに病院、ガソリンスタンド、郵便局、銀行、というようなことが判るようになっていればよく、必要以上に細かく書かれていたら「必要なもの」さえ探せなくなってしまうからだ。人ひとりしか歩けないような狭い道とか、下水道の走行、マンホールの位置、交通標識の位置、・・・情報を細かく載せようとすると無限に(本当は有限だけど)複雑になってしまうからね。そういうのは逆に「役に立たない」のだ(笑)。


なので、普通の人(大衆)には、ニーチェがどうだ、デカルトがどうだ、シュレ猫(笑)がどうの、なんてことは、あんまり必要とされないのです。そういうのが全く書かれていない「地図帳」しか持っていなくても、日常生活では困ることはないのです。大量に市販されるカーナビの「パッケージ・ソフト」みたいに、定型的なことが載っていれば、十分なのですね。


ところが、研究者とか、専門性の高い人とか、知識をたくさん身に付けたい人にとっては、スカスカした地図帳では物足りないし、もっと詳しく書き込みたいのですね。その為に、自分の足であちこち放浪したりして、山に登ったりなんかする訳です。優れた教育とか、書物の力を借りると、そういう地図の書き方のお手本とか、有力な山登りルートとか、必要な装備一式とか、そういうのが既に過去の研究者などによって書き込まれている地図を手に入れることができるのです。で、その力を借りたりなんかして、自分も登ってみるわけです。すると―今まで知らなかった景色や、隣の山の見え方や、平地の道路の具合なんかが、見えたりするようになれるんですよね。これは登った人じゃないと、判らないのです。


有力な地図帳を作ることに成功すれば、他の山を攻略する時にも役立つし、何かの問題を解釈したり解決策を考えたりする時なんかにも、攻略法・考える方法をいくつも知ってるので、知らない人よりも役立つかもしれません(必ずしも正しい答えが導き出せるとは限らないかもしれませんが)。一つしか方法を知らないよりも、いくつも知ってる方が有利なことが多いですよね、多分。


例えば、「マルクス山」という山(マルクス研究のことです)にチャレンジするとしましょうか(当たり前だが、『マークスの山』とは何の関係もない、笑)。この研究者は過去に星の数ほどいて、大体、登るルートも何人も歩いてきたので、おおよその「登山道」が出来ちゃってます。あちこちから登ってくる訳ですから、あんまり「道のついてない斜面」自体が少なくなっているでしょうね。一般人がこれに挑む時には、やっぱり登り易い大きな登山道を行った方が良かったりするし、何度も登頂に成功していて、もうちょっと高度なルートがお望みならば急斜面のザイルなしでは登れないようなルートを選んでもいいのですけれど、要するに頂上まで登り切れればいいのです。すると自分の地図にも、そのルートや、その他気が付いたことや、途中に見られた目印なんかが色々と書き込めるのです。頂上まで行けば、違った景色を体験でき、それは他の山を制覇しようとする時にも役立つことになるのです。


人々が目指す場所は色々あって、観光名所みたいなもので、「典型的な名所」というのは人気があるし、多くの人が訪れますね。マイナーな場所も当然あって、少ない人しか訪れない場所もたくさんあります。山ばかりじゃないし、川もあれば、大きな沼地もあれば、海もあるし、深海も勿論あるでしょう。どんな分野でもいいのですけど、とりあえず「制覇する」ことが重要だと思います。ゲームにも似てるかな?「ラスト」までクリアすることが必要なのです。ラストまで行った人だけにしか感じ取れない何かが、きっと待っているでしょう。


ですので、現実の世界では、「茶道」に打ち込んでもいいし、「建築」でも、「美術」でも、「懐石料理」でも、何だっていいのだろうと思います。そういうのにチャレンジして、一定の水準を「クリア」すると、他の山にチャレンジする時にも、似たような攻略法とか装備なんかが使えたりできるようになるからです。そうやって「自分の地図帳」に、あれこれと書き込んでいくのだろうと思います。本格的な知識人になれば、「登頂に成功した山」の数が他の人々よりもはるかに多いだろうし、「ああ、あの山はね・・・」と他の人に教えてあげたりできるし、持ってる「地図帳」もかなり細かく記入されているはずです。普通の人が「山小屋の場所」とかしか書いてないような山であっても、「一番高かった木の種類、樹齢、幹の直径」「向こう側のルートは行き止まり」とか(「行き止まり」は間違った解釈やアプローチ方法とかの場合かな・・・)が書かれてるのですね。こうやって、みんな自分それぞれの「地図帳」を作っていくのです。


「温泉巡り」みたいな面もあって、興味があるとか好奇心があるとか、そういう人は、自分で次の目的地を探して勝手に歩いて行くので、地図帳は記入が増えていくし、あまりやる気のないような人であれば、真っシロに近いあまり役立たない地図帳しか持つことができないのです。それから、あまりに専門性が高い人の場合に、自分の周りの凄く狭い範囲しか地図帳に書き込んでいない人もいたりして、「町内」には異常に詳しいが、他がダメという人も勿論いるのですね。「町内」の道路ばかりか、水道管、下水、犬を飼ってる家の場所、毎朝スズメがくる木、・・・そういう細かい地図帳もアリです。でも、あんまり特化した分野だけになってしまうと、自分の立ってる位置がふと判らなくなる、というようなこともあるので、注意が必要です。RPGのように、時には「全体を大きく俯瞰できる地図」もまた必要になることが多いのです。冒険できる世界を広げていくには、そういう「大雑把だけど全体的に見渡せる地図」みたいなものもあった方がいいのです。


もっと大事なことは、個人によって地図の書き込み方が全く異なる場合もある、ということですね。簡単な地図の場合には、大体他の人が見ても、学校は学校として書かれているのが判るのですが、特別な地図も勿論あるのです。それは専門性の違いによって起こってきます。たとえて言うなら、「海図」と普通の地図は違うし、「正距方位図法」で書かれた地図と「メルカトル図法」で書かれた地図は違うということです。解釈の違いとか、視点・見方の違いとか、そういったことで、地図帳に書かれていることが同じではなかったりするのです。社会学的に記述した場合、経済学的な場合、歴史学的な場合、・・・これも様々あるのですけど、できればなるべく多くの「地図の読み方」を心得ておく方が有利ですね。その方が読み取れる中身が増えますから。ただ、ある程度の基礎訓練を積んでいれば、他の地図の読み方しか知らない場合でも、多少応用がきくこともあるかもしれません。何の分野でもそうだと思いますが、一流になれば他の分野の「一流」に相通じる部分があるそうなので、非常に登頂困難な山を登りきった人は、それなりの「地図帳」を既に持っていることになり、そういう部分でも応用がきく、ということかと思います。


変な例だったと自分でも思いますが、「教養」というのは大体こういうような感じで、「古典」の部分というのは、「名所名跡」とか「名山」みたいなものですので、「一度は行ってみるといいよ」というような感じでしょうか。旅行のガイドブックもそうですけれど、「教養」としての基本的メニューみたいなものは、「一通り、観光地巡り」しておくといいのではないのかな、というような、ある種の「パッケージ」というか「ダイジェスト版」というか、そういうようなものでしょう(これは誰かがお手本として、書いてくれるとか教えてくれるという必要があったりますね。取捨選択は―ガイドブックを書くこと―は、普通の素人では難しいからです)。自分で全部を「回り切れない」と思えば、本当に有名どころだけを選んで歩いてもいいのだし、特別に「教会巡り」だけはしたい、とか、「美術館巡り」だけはしたい、とか(まあ実際には、「とりあえず経済学分野だけ」とか、「哲学分野だけ」とかのような感じでしょうか)、そういう風に選んだとしてもいいのではないのかな、と思いますね。


結局、自分の好きな「地図帳」を作ろうかな、と思えることが大事で、それにはホントの身近な「町内」から頑張ってみるのもいいし、「冒険用大地図」を大まかに書いてもいいし、誰かに付い行って「ワケも判らずとりあえず登ってみる」でもいいし、低い山にまず登って頂上に着いた後に考えたっていいのですよ、きっと。でも、頂上に立ってみた時の、自分の気持ち・考え・見える景色、そういうのは実際に登らないと予想もできないし、いくら自分の頭だけで考えていたとしても判らないのではないかと思います。そして、「オレには登れっこない」とか、「どうせ無駄さ、つまんないよ」とか、「所詮役に立たないんだから」とか、そういうことを思っている限り、「真っ白い地図帳」にはあまり書き込まれず、人生の途中であっても「何を記入したらいいのか判らない」という具合に、迷子になっちゃったりすることになるのかもしれません。こんなことを言いつつも、果たして私の地図帳には何が書きこまれてきたのかは、甚だ疑問なのですけれど(笑)。