いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

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終戦記念日に思うこと

2006年08月15日 01時59分13秒 | 社会全般
先日読売新聞の特集記事で、昭和の戦争についての総括が出ていた。これまでのシリーズをまとめたもので、読売新聞の取り組みとしては、高く評価されていいと思っている。特に戦争への記憶を持たない日本人にとっての、大切な教訓を示していると思う。改めて思うことは、「人間は愚かだ」ということと「戦争は絶対に避けなければならない」ということだ。


「戦争責任」についての歴史的評価は、読売新聞でも示されたし、他の歴史研究でも数多く出ているだろうから、今は特に触れない。ただ「犯罪」というのは、法に規定されているから犯罪なのであって、法になければ犯罪として処罰されてしまうことはないはずであろう。「戦争は合法だ」というのも、心情的には賛同しがたいが、法とはそういうものなのであり、「戦争責任」というのが確実にあっても「犯罪」として成立しているかどうかということは、法によるべきものなのだろうと思う。


恐らく危険なのは、「理想を追求していく」ということを突き詰めていけば、「精神性」「神秘性」のような部分が強調されるに至ってしまうことであろう。特に官僚主義的とか完璧主義的な組織が存在すれば、一方向に傾いていくのかもしれない。こうした先導を果たす役割というのは、全くの無学な人間にはできないのであり、むしろエリート的な人間にしかできないであろう。「理想」を求めるが故の陥穽であるかもしれない。平凡に、「怖いものは怖い」「命が何よりも惜しい」という、より生物的な、というか「本能的」な感覚の方が結局大事で、そういう「普通の感覚」を持つ人々の方が多いということが間違いを減らすに違いないと思う。世の中というのは、そうそう「理想的」にはいかないものなのであろうし、混沌としていて完璧でない部分がある方が健全であるという証拠であるのかもしれない。


靖国神社に対する意見や想いというのは、人によって大きく異なるのは当然だろうと思う。これは、戦争の「傷」を受けた者でなければ、やっぱり判らないものなのではないだろうか。私は戦後生まれであるので、本当のところは判らないし、色々な情報や識者等の意見を見かけるだけである。もしも自分の親兄弟とか、その他肉親を失った人であるなら、「何と思っているか」「どう考えているか」というのは、私のような戦後世代とは違っていても不思議ではないと思う。そこには、数百万か数千万の「物語」があるはずだろうと思っている。肉親や友人たちや近所の人等の知人たちが、次々と戦争の為に死んでいくということを「受け入れざるを得なかった」人にとっては、特別なことなのではないかと思う。体験していない私達があれこれというのもおこがましいというか、申し訳ない気持ちになる。


「絶対に許せない」、そう思う遺族も少なくないのではないか。当時の国のやったこと、軍部をはじめとする責任者たちのやったこと、それを永遠に許すことはできないし、指導者とか上官という特定個人を恨みに思うことがあるかもしれない。そこには、そう思うことで「死者」に対する自分の想いを60年以上に渡って繋ぎ続け、「やり場のない怒り」をぶつけることで自分の心を鎮めてきたという「物語」があるのかもしれない。逆に、特定個人への恨みや非難は全く持っていなくて、ただひたすらに「死」をもって分かれることとなった故人への「慰霊」という気持ち、国のために死んでいったその他の戦死者たちへの敬いの気持ち、これらを表わしたいと考えている人もいるかもしれない。戦友たちなどが死んでいった中で、「自分だけ」が生きて残ってきた後ろめたさのような気持ちを詫びるという人もいるかもしれない。いずれにしても、それぞれの物語があって、それは体験していない人間には計り知れない深さのあるものなのだろうと思う。もしも自分の家族、親戚、級友、職場の同僚、隣の家の人、そういう人々が、常に「死」が身近にあって次々に死んでいくとしたら・・・・これは受け入れがたい状況だと思うし、それ故に自分の心の中に何かの「理由付け」を行わない限り心の整理がつかないと思う。


こうした人々が靖国神社についてどのように思うかは、私にはどうすることもできないし、彼らにとっての「靖国神社」というものに立ち入ることもできないように感じる。彼らの「物語」が残っている限りは、私には彼らの気持ちを無視して「靖国神社」をどうこうと言う権利もないように思える。せめて直接の遺族の残っている間は、今のままで置くしかないように思える。「物語」はまだ続いているのだ。


「政治的な靖国参拝問題」と、かかわりのあった人々の心の救いがあるかどうかということとは別なのだろうと思う。