『加賀市史料4』所収の『大聖寺藩士由緒帳3』の山崎権丞家由緒之覚の初代権丞の説明箇所を見ると、〈山崎長門入道閑斎(山崎長徳)丿外曾孫ナリ。(中略)閑斎、外孫青山豊後長正次男ヲ養子トス。是ヲ初代庄兵衛トス。(中略)慶安4年(1651年)初代庄兵衛病死、利治公ハ亡父(初代庄兵衛)丿遺知弐千石ヲ長男二代庄兵衛ニ賜リ(二代庄兵衛寛文5年(1665年)病死、嗣子無クシテ家断絶ス)、七百石ヲ次男初代権丞ニ賜ル。(中略)延宝7年(1679年)初代権丞病死ス。〉とある。これをそのまま事実と受け止めると、青山豊後長正次男青山俊次が外祖父山崎長徳養子に入って初代山崎庄兵衛長鏡になった、と読めてしまう。青山家の本家秘蔵の名刀(美濃鍛冶の名工志津兼氏の作。長二尺又一分)盗みの廉(かど)で能登島富木の流刑地へ配流となって同地で寛永19年(1642年)に没したはずの俊次が何らかの身代わり入れ替わりで延宝7年(1679年)に病死した長鏡になったのかも、という荒唐無稽な身代わり譚が生じてしまう。なぜ、公的書類である藩士由緒帳に初代山崎権丞の父親を〈青山豊後長正次男〉と書いたのか。今一度、青山豊後長正の子どもたちのことをメモしながら頭を整理してみたいと思った。
『加賀藩史稿』第4巻列伝2によると、青山豊後長正と山崎長徳女との間には4人の男児がいたらしい。すなわち、長男正次、次男俊次、三男長鏡、四男宗長である。長男・青山正次は長正の死後、長正遺知のうちの1万3500石を預かり、長正の務めていた魚津城代を継いだが、元和10年(1624年)8月10日に22歳で死去した。子は青山吉隆。後に吉隆は前田綱紀の教育担当としても活躍した。
次男・青山俊次は兄 正次に次いで長正遺知のうち2000石を預かる。正次死去後は、正次の子 吉隆の後見として青山家伝来秘蔵の武具や重器を預かったが、吉隆14歳の頃、俊次が預かってきた青山家伝来秘蔵の武具や重器を吉隆へ引き渡すことになり、青山家家老の早崎庄右衛門が俊次の許へ受け取りに赴くも、俊次が引き渡しを渋ったことで庄右衛門と諍いになり、俊次が庄右衛門を斬殺した。その名刀盗みの顛末を吉隆は藩主へ訴え出て、俊次は藩命により能登の流刑地、能登島富木への島流しとなり、その地で寛永19年(1642年)死去した。この事件により俊次の立てた分家・青山家は断絶した。
三男・青山長鏡は外祖父の山崎長徳の養子となって山崎長鏡(初代庄兵衛)を名乗り、加賀藩士となる。後に大聖寺藩立藩に随い、慶安4年(1651年)病死。その長男は二代庄兵衛(寛文5年(1665年)病死、嗣子無くして庄兵衛家断絶)となり、次男勘左衛門宗次は長鏡弟の加賀藩士青山宗長左近の養子に、三男初代権丞は大聖寺藩士山崎権丞家を立てた。初代権丞は延宝7年(1679年)病死。
四男・青山宗長は前田利常に仕え500石を受けて江戸に在住した。通称は左近。青山宗長左近とも言われている。子が無かったため、兄の山崎庄兵衛長鏡の次男勘左衛門宗次を養子とするも、宗次は子の長貞を遺して早世したため、宗長の後は長貞が継いだ。ちょうど青山本家では時の五代目当主長重に子が無かったため、請われて長貞が分家と本家とを統合する形で青山本家の六代目当主になった、という。
はたしていったい外祖父山崎長徳の養子に入って山崎庄兵衛長鏡となった人物は青山豊後長正の次男だったのか三男だったのか。
いま考えられることは、恐らく、青山家の時の当主(事件被害者の吉隆辺りかもしれぬ)が家名を汚す不名誉な事件を起こした俊次を怒りに任せて家譜からいったん削除抹消するようなことがあって(時間を経て後に俊次の名前を家譜に戻したかもしれないが)、本来三男の長鏡を次男としたことがあったのではないだろうか。今のところそんなことを想像している。
予約録音しておいたラジオのかけクラで市川さんが〈徳島と高知を結ぶアサ海岸鉄道に乗って来ました。アワのアとトサのサでアサですね〉と語られていた。アワ、冷静に考えれば徳島のアワだから当然旧国名阿波なのだが、聴いているこちらはどういうわけだか咄嗟に千葉県の旧国名安房の方を頭の中で勝手に強固に浮かべてしまい、正しい表記の阿佐海岸鉄道にどうしてもなかなか繋がらなかった。我がことながら、無惨な抽斗の油切れにひとりひっそり苦笑するしかなかった。