映画的・絵画的・音楽的

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ふきげんな過去

2016年07月26日 | 邦画(16年)
 『ふきげんな過去』をテアトル新宿で見ました。

(1)予告編を見て面白そうだと思い、映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、東京湾近くの運河が見えるところ(注2)。
 カコ二階堂ふみ)が不機嫌そうな面持ちで運河の縁に立っていす。そこへ、ギターを背負ったヒサシ山田裕貴)がやってきて、「なあ」とか「ねえ」とか言って彼女にまとわりついています。
 ヒサシが「ここ海だからいないよ」と言うと、カコは「運河」と応じます。さらに、彼が「海水が混じってるんだから、ワニなんかいない。本当にいると思ってんの?」と言うと、彼女は「伯母ちゃんが見たって」と答えます。
 焦れたヒサシが「どっか行こうぜ」と言うので、カコが「どこ?」と尋ねると、彼は「どこがいい?」と聞き返します。彼女が「ここじゃない世界」と答えると、彼は「何いってんの、お前」と呆れ返ります。
 今度はヒサシが「俺、お前の曲作っていい?」と尋ねますが、カコは「やめて」、「あんたのバンドなんかすぐに解散するから」、「私には未来が見えるの」と言います。
 そして、彼女は「喫茶店に行く」と言うと、彼は「やめとけ、あいつは人さらいだ」と脅かします。

 次は喫茶店の場面。
 店に置かれているTVの画面では、アメリカ大使館爆破事件のニュースが流れています。
 カコは、岩波文庫の『小さき者へ』を読むふりをしながら(注3)、カウンターの方を見ています。
 カウンターの前の椅子にはヤスノリ高良健吾)が座っていますが、ウエイトレスのエツコ墨井鯨子)と一言二言話をした後、喫茶店を出ていきます。
 カコがエツコを見ると、エツコは「ヤスノリちゃん事件って知ってる?」と尋ねるので、カコは「知りません」「何なんですか?」と応じます。

 カコが、商店街を傘を引きずりながら歩いていると、途中で、3人の女子高生と遭遇しますが、お互いに知らない者同士のようにスレ違います。
 ただ、そのうちの一人だけが、振り返ってカコの後ろ姿を見続けます。

 そして、随分とくたびれた感じのする食堂の店内。
 丸い大きなテーブルのところで、カコの母親のサトエ兵藤公美)と、祖母のサチ梅沢昌代)が豆を剥いています。
 サチが「(サトエがおんぶしている赤ん坊の名前を)決めないと、あれだろ?」と言うと、サトエも「そうね」と応じ、さらにサチが「豆にちなんだ名前をつけたらいいんじゃ」と言ったりします。
 客(児玉貴志)が「この子、大丈夫か?」というものですから、サトエは「今日はやる気ないみたい」と答えます。

 こんな風に映画は進んでいきますが、さあどうなることでしょう、………?

 本作は、東京の運河にワニの出現を待っているいつも不機嫌な女子高生が住んでいる住宅兼食堂に、爆破事件を起こして北海道で死んだはずの伯母がやってきて、その女子高生の部屋に寝泊まりすることになり、云々という大層風変わりな作品。一種のファンタジーでしょうから、例えば、展開の突飛さを楽しんでもいいのでしょうし、個々の会話の面白さを味わってもいいでしょうし、映画の持つ意味合いをあれこれ考えるのもいいのでは、と思われます。

(2)本作では、まず、東京湾沿いの運河にワニの出現を待つカコが描かれます。



 そればかりか、遠くの方に、女性(注4)が銛を手に運河を見下ろしている姿がぼんやり見えたり、ラストではそのワニが岸辺に打ち上げられていたりもするのです(注5)。

 また、16年前に北海道で死んだとされたミキコ小泉今日子)が、突然皆の前に出現したり、カコの部屋の窓から飛び降りていなくなったりします(注6)。



 こんなことから、本作は、運河沿いにある古びた食堂を舞台にしたリアルな作品のように見えながらも、内実は一種のファンタジーなのでしょう。

 ファンタジーですから何が起きても不思議はないとはいえ、映画を見ながらクマネズミは、ミキコやヤスノリはカコの幻想の産物ではないかと思いました。その二人はツマラナイ現実を爆弾を使って変革しようとしているものの、カコにはそんなことでは何も変わらないように思え、ますます不機嫌になります。ただ、見えるはずがないと思っていたワニの出現によって、ようやくカコはポジティブな感じを掴んだように見えます。それでは、このワニとは、いったい何でしょう?何しろ、見えないはずのものが現実の姿になって見えたのですから!でも、見えないはずですから、現実の姿ではないのでしょう。としたら、…?

 それで何かヒントが得られるかなと思って、見終わってから本作の劇場用パンフレットに目を通すと、掲載されているインタビュー記事で前田監督は、「未来子と果子、そしてカナ山田望叶)の3人は、同じ人物の45歳、18歳、10歳の断層で、普通は決して交わりません。でもそれを地層の断面図みたいに縦に並べてみたかった」と述べています(注7)。
 なるほど、カコは果子で過去であり(注8)、ミキコは未来子で未来なのか、そして同じ人物なんだ、とようやくわかります(注9)。
 それで、同じ部屋に3人が一堂に会して話したり、またヤスノリの屋敷の跡に船で一緒に出かけたりするのでしょう。



 そして、この人物について、45歳のミキコを起点としたら、18歳のカコと10歳のカナは過去でしょうし、カコを起点にしたら、ミキコは未来でありカナは過去になり、カナを起点としたら、ミキコもカコも未来というわけでしょう。

 ただ、18歳の時に運河でワニを見て顔を和らげるカコは、45歳の時にアメリカ大使館爆破事件を引き起こすミキコに繋がるのでしょうか?カコは、その時タッパーに入った爆弾を手にしているとはいえ、クマネズミには、ワニを見たことによって、カコはその爆弾を使わなくなるように思えるからですが(注10)。仮に繋がらないとしたら、カコは27年後の自分を変えることができることになるのでしょうが、その自分とミキコとの関係はどうなるのでしょう?

 それはともかく、本作については、上記の点ばかりでなく、劇場用パンフレットに掲載されているシナリオの「決定稿」(注11)や「年表」によって、何だそうだったのかと思わされることが多々あります。
 例えば、橋の上で男たちが争っているシーンがありますが、そのシナリオによれば、A組織に捉えられていたミキコをB組織のヤスノリが助けたということのようです(注12)。

 ただ、本来的には、観客が見る映画の映像だけで映画は完結すべきものと思われ、こうした参考資料によって補足しなければきちんとした理解が得られないというのは、どうしたことでしょう?
 あるいは、制作者側は、そうしたところは意図的に曖昧にしておき、観客の想像に任せたのかもしれません。逆に、何から何まで映画の中で説明されてしまうのも酷く鬱陶しいものです。
 でも、こうした参考資料が公刊されていて、それを調べればかなりのことがわかるというのでは、観客の想像に任せるということに余りならないのではないでしょうか?

 とはいえ、参考資料で分かるのは登場人物の関係性が専らであって、本作全体のわからなさが解明されているわけではありません。本作の持つ意味合いについては、この先もいろいろ考えなくてはならないでしょう。そして、本作の面白さもまたそういう点についていろいろ考えるところにあると思います(注13)。

(3)北小路隆志氏は、「あらゆる存在が無気力に見え、赤ん坊さえ「ぐったり」している世界。疑問や不満もなく退屈さを生きるばかりか、元気を出そう、夢を持とう、などと陳腐な説教を子供に垂れるでもない大人たちの姿が妙に感動的でさえある」と述べています。



(注1)監督‥脚本は、『ジ、エクストリーム、スキヤキ』の前田司郎

 出演者の内、最近では、小泉今日子は『マザーウォーター』、二階堂ふみ高良健吾は『蜜のあわれ』、板尾創路は『杉原千畝 スギハラチウネ』、山田望叶は『私の男』で、それぞれ見ました。

(注2)劇場用パンフレット掲載の「プロダクションノート」によれば、「舞台は北品川」。

(注3)『小さき者へ』のはじめの方には、「お前たちは去年一人の、たった一人のママを永久に失ってしまった。お前たちは生れると間もなく、生命に一番大事な養分を奪われてしまったのだ。お前達の人生はそこで既に暗い」とあり(青空文庫版より)、カコとサトエとミキコの関係を暗示しているように思われます(下記の「注12」をご覧ください)。

(注4)よくはわからないのですが、「海苔の本田の奥さん」と言われる女性なのでしょう。

(注5)シートを掛けられて死んでいると思われたワニがもぞもぞ動いたりして、見物人たちが慌てて逃げ出したりします。

(注6)さらに、その未来子を連れに来たヤスノリが、遠くの家の屋根の上に現れて、そこから下に飛び降りる場面も描かれます。
 にもかかわらず、カコが探しに行くと、その二人が、ヤスノリの部屋でいっしょにソバを食べているのです。

(注7)さらに前田監督は、「個人の記憶の中では出来事が時系列に並んでいるわけではなく、例えば未来に訪れる自分や家族の死がすごく近いことのように思えたり、昨日のことが忘却の彼方に消えていたり。過去と未来の区別がそんなにきれいに付いていない気がするんです」と述べていますが、なかなか説得的な気がします。

(注8)カコが同じ部屋で寝ているミキコに向かって、「なんで赤ん坊の私を置いて出て行ったの?」と尋ねた時、ミキコは「邪魔だったから、カコが」と答えたのにカコが「なにそれ」と言うのは、“カコ”が「果子」と「過去」の語呂合わせになっていることに気がついたからでしょう。

(注9)例えば、カコがカナに「学校つまんないの?」と尋ねると、カナは「つまんない、毎日同じようなことしかしないから」と答えますが、8年後のカコを彷彿とさせますし、カコがミキコに「伯母さん、何で死んだの?」と訊くと、ミキコが「あたしもつまんなかったの」と答えるところからは、45歳のミキコと18歳のカコとが同じ人物のように思われてきます。
 またカコが「ワニがいるわけない」と言ったらミキコが「いるわ、あたし見た」と答えますが、27年後のミキコならありうる言い方のように思われます(ラストで、カコはワニを見るのですから!)。
 ちなみに、カナに扮する山田望叶は、『私の男』で主人公役の二階堂ふみの幼少期を演じています!

(注10)劇場用パンフレット掲載の「年表」によれば、ミキコは父親(「下記注12」の写真の男)のビルを爆破するのは17歳の時で、18歳のカコよりも1つ歳下なのです。

(注11)最後に「採録シナリオではありません」との但し書きが付いています。

(注12)更に言えば、例えば、「ノリノホンダ」が「海苔の本田」、食堂の客である片足が義足のヒロシの息子がヒサシ、カコの祖母・サチの最初の夫が仏壇に置かれている写真の男(大竹まこと)で、ミキコはその男との間の子で、サトエはサチの2番目の夫との間の子、写真の男の妹の子がレイ黒川芽以)で、レイの子がカナ、などなど。
 なお、カコは、ミキコとタイチ板尾創路)との間の子で、ミキコが失踪した後、タイチと結婚したサトエが自分の子として育ててきたことは、映画の中からおおよそわかります。



(注13)例えば、次のようなツマラナイことを考えたりしました。
 前田監督は「人間は記憶で出来ています」と述べていますが、未来・現在・過去が記憶から出来ているとしたら、記憶の中身は見えたものばかりでしょうから、見えないものは見えないままであり、また、カコが言うように「私は未来が分かる」ことにもなるでしょう。そして、それらの見えているものを爆弾で破壊しても、なにも新しいものは見えてはきません。でも、記憶にとらわれない想像力があるとしたら、その想像力を働かせることによって、見えないものも見ることができるかもしれません。カコは、もしかしたら、想像力によってワニを見たことから、見えないものを見ることができるとわかり、それまでの不機嫌な顔を和らげたのかもしれません。



★★★★☆☆



象のロケット:ふきげんな過去

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2 コメント

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Unknown (atts1964)
2016-07-27 08:49:25
そうか、パンフレットにいろいろ書かれているんですね。この作品ではあまり読みたくないですね。見ている側の想像力で、いろいろ思いを募らせるのが良いでしょうね。
半分夢の中から、なかなか覚めない華子が、最後のサメを見て目が覚める(笑顔を見せる)そんな感じだと私は感じていました。
こちらからもTBお願いします。
Unknown (クマネズミ)
2016-07-27 18:56:20
「atts1964」さん、TB&コメントをありがとうございます。
何も手がかりが与えられないと、おっしゃるように、「半分夢の中から、なかなか覚めない華子(⇒果子)が、最後のサメを見て目が覚める(笑顔を見せる)」といった感じになりますね。ただ、未来子=果子=カナとして映画を見なおしても、また面白い感じになるものと思います。

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