
『スイッチを押すとき』を新宿武蔵野館で見てきました。
(1)チョット時間が空いたので映画でも見ようかなと思って、小出恵介が主演だということの他は、ほとんど情報なしに映画館に飛び込んだ次第です(注1)。
物語は、10代の青少年の自殺率が激増した原因を探るべく、10歳の子供を任意に一定数だけ選び出し、その心臓に起爆装置(「自殺補助装置」と言われています)を埋め込み、手渡したスイッチを押せば直ちに自殺できるようにする、という青少年自殺抑制プロジェクトが、15年前から国の管理の下で実施されます(今は2026年)。
時間の経過と共に、被験者は次々と自殺してしまい、このプロジェクトに根拠を与えていた法律も廃止されることになって、最後まで残った6名の被験者(全員17歳、うち1名が女子)は1ヵ所で厳重な監視の下に閉じ込められ、一刻も早い自殺が当局からは要請されています。
そこに、被験者を監視する職員として、新たに小出恵介が派遣されてきます(彼は25歳と設定されています)。
すると、これまで頑なに自殺を拒んできた被験者が次々に自殺するようになったのです。
いったい、この男はナニモノなのでしょうか、……。
しかしながら、このような粗筋を申し上げただけで、いくら近未来の話としても、トテモ考えられないような甚だ奇妙奇天烈な設定になっていることは明らかだと思われます。
a.青少年の自殺率が激増するといっても、10万人あたりせいぜい50人といったオーダーだと考えられますから(実際は30人程度であり、仮にそれが100人になるとしても)、一定数の被験者が10年以内に皆自殺する確率など極く極く低いのではと考えられます。
特に、被験者の中で自殺しないで残っているのがわずか6名なら、彼らが皆短期間の内に自殺する確率は、限りなくゼロに近いと考えられるところです。
b.それに元々、自殺者の意味のある心理状況を探るというのであれば、自殺する者の数を一定数以上集める必要があるところ、予め誰が自殺するのかなどまったく分からないのですから(特に10歳の子供なのですから!)、被験者を何十万人のオーダーとしなければならず、いくら近未来の話だとしても、そんなことは不可能でしょう(仮にそれが可能であるとしても、自殺しないで生き残る者の数は、6人などという僅かな数字とはならず、やはり何十万人というオーダーになるに違いありません!)。
c.被験者の心理状況を探るといっても、映画からすると、被験者に絵を描かせるか思いついたことをノートに書くように指導しているに過ぎず、そんなもので有意味な結果が得られるとはトテモ考えられないことです(映画では、このプロジェクトによって、青少年の自殺は劇的に減少し、それでこの実験は廃止されることになったとされていますが、一体どんな実験結果が得られたというのでしょうか?)。
d.仮にそんなやり方で自殺者の心理が解明できるとしても、子供達を無理矢理親達から引き裂いて一定の場所に監禁したうえで自殺を促すという方法では、普通の環境下にある一般の青少年の自殺行動とは違った心理状況(例えば拘禁症状)の下における特異な自殺心理しか調査できなくなってしまい、その調査結果から有意義な指針が得られるとは考えられません(注2)。
といったようなことから、映画の中に入り込もうとしても入り込めない甚だ奇妙な設定が、最初から設けられていると思います。
そうなれば、観客としてこの映画を見続けるには、自殺の心理を探るためという実験目的は取り敢えず括弧に入れておき、体の中に起爆装置を埋め込まれてしまった6人が、新たな監視員の小出恵介を迎えてどういう行動を取るのか、また小出恵介の役割は何なのか、なぜ小出恵介はそんな役割を担っているのか、といった方面に眼を向けざるを得なくなります。
そうしてみても、最後に残った6人は、通常の人よりも自殺志向が遙かに強いように設定されているとでも考えないと、ストーリーが展開しないように思われます。
というのも、小出恵介は、実のところは、6人を早いところ自殺に導くべく当局から派遣されてきた職員であって、その巧みな誘導によって、被験者の内の何人かははスグに自殺してしまうのですが、仮に皆が普通の人間ならば、いくら小出恵介が上手い方策を採ったとしても、そうは簡単に自殺などしないことでしょう(注3)!ですがそれでは、この物語は結末にたどり着けません(注4)。
とすると、この映画は、やはり自殺を抜きにして見ることが出来ないようなストーリーになっているようです。
常識と辻褄を合わせるには、この映画のストーリーは、あるいは次のようにも考えられるかもしれません。どういうやり方かまったく分かりませんが、自殺志向が一般の子供達よりも随分と強い子供達が選び出され、心臓に起爆装置が埋め込まれ、楽に死ねるようにスイッチが渡され、その結果15年の間に次々とその子供達は自殺していき、最後に6人が残ったが、彼らも小出恵介がやってくると、……、というような話です。
ですが、一体どのようにして自殺志向の強い子供を選び出すというのでしょうか(注5)?
もしそれが予め分かるのであれば、何もこんな実験をせずとも(無理矢理自殺時期を早めようとせずとも)、彼らの行動をそのまま監視すれば、意味のある調査結果が得られるのではないでしょうか?
それよりなにより、そうした子供達が自殺しないように、それこそ親達や学者などが血の滲むような努力をすることでしょう!
本作の物語は、最初の出だしから最後に至るまで大きく破綻しているのでは、と言わざるを得ないと思われます。
(2)あるいはこの映画は、以上クマネズミが拘った自殺の話は単なる背景であって、メインは小出恵介と水沢エレナの死に至る恋愛物語だ、と考えることも出来るかもしれません。
特に、2人は一緒に施設から逃げ出して、遊園地で観覧車に乗ったり、青函連絡船で北海道に渡り、広々とした草原に行き着いたりするところなどは、随分と時間を取って逃避行として上手く描かれていると思います(ただ、2026年になっても、北海道へ渡る手段として青函連絡船が選ばれ、なおかつそれに3等船室があるという想定は可能なのかどうか分かりませんが)。
それに、極めて大切と考えられるスイッチを、被験者は単にポケットに入れて持ち歩いているだけで、小出恵介などは、被験者と争っている最中にそれを落としてしまうくらいの杜撰さです(注6)。
また、小出恵介は、水沢エレナと施設を逃げ出してから海岸に出ると、2人のスイッチを海に放り投げてしまいますが、随分と簡単にそんなことができるのだな、と唖然としてしまいます(ただ、他にはそんなシーンは描かれません。施設にいるときにそんなことをしたら、厳しく罰せられるでしょうし、予備のスイッチがいくらでもあるでしょうから、被験者には無意味な行為だと分かっていたのでしょう)。
こんなところを見ると、スイッチにそれほど重きが置かれているとは思えず、そうであれば「自殺」自体に焦点が当てられてはいなくて、それは何か別の事柄を象徴していると考えた方が良さそうにも思えてきます(注7)。
とはいえ、冒頭でこのプロジェクトの内容が説明され、さらにラストで、すべてはこの実験を総括している「自殺対策推進室長」(田中哲司)の手の内で踊らされていたことなのだと分かると、被験者は室長の操り人形のように取り扱われていたのだな、別の解釈の余地などないのでは、と思えます。なにしろ、自殺対策推進室長は、その当初の思惑通り、この実験を完全な姿で終結させることができたわけですから(注8)。

出演の俳優は、しかしながら、小出恵介を始めとして皆好演していると思います。
特に、『日輪の遺産』で主計中尉役を演じた福士誠治が、こちらでは小出恵介の同僚の監視員役を演じていることや、また施設の所長役の西村雅彦は、『Dear Heart』と同じようなエキセントリックな演技が注目されるところです。

また、水沢エレナは、まだ19歳ながら難しい役どころをよくこなしていて、これからが期待されるでしょう。

(3)なお、最近の日本における自殺については、青少年に問題があるというよりも、むしろ全体の自殺率が他の先進諸国と比べても高いことと、中高年の自殺者が急増していることが問題点として挙げられています〔以下、Wikipediaの「自殺」の項によっています〕。
すなわち、日本の2010年の「自殺率(人口10万人あたりの自殺者数)は24.9人」であり(注9)、また「総自殺者数は31690人」と3万人を超え(12年連続)、「1998年以降現在にいたるまで、自殺率は戦後3度目にして最大のピークの最中であり、ピーク以前と比べ、自殺者が20%~50%増加し」、とりわけ「今回のピークの原因は不況によるものと推測されており、不況の影響を受けやすい中高年男性でピーク後の自殺率が特に急増している」とのこと。
こうした状況を見るにつけても、本作は焦点がかなり外れてしまっていると言えるのではないでしょうか(注10)?
(注1)小出恵介が出演した映画としては、『初恋』(2006年:この記事の(2)を参照)、『キサラギ』(2007年)、『パレード』といったところが印象に残ります。
(注2)彼らはズーッと施設の中に閉じ込められていて満足に教育も受けさせてはもらっていませんから、「体は大きくとも、頭の中は空っぽ。遊び道具を持っていても、誰も何もしない」などと映画の中で言われています。そんな特殊な精神状態の者についての調査結果は、とても一般化出来ないのではと考えられます。
(注3)小出恵介は、母親からの手紙が見つかったと一人の少女にそれを手渡します(外部からの連絡は一切禁じられていたにもかかわらず)。そこに、赤ちゃんが生まれたと書いてあるのを読んで、その少女は、自分は親から見放されてしまったとスグにスイッチを押してしまいます(4年半ぶりの死者とさます)。
また、他の同じような施設に監禁されている幼馴染みの少女に手紙を送り届けることを請け合った小出恵介から、その少女が死んだことを知らされた少年も、彼女を助け出そうとしていた望みが無意味になってしまったと、またすぐにスイッチを押してしまいます。
いずれの場合も、小出恵介は、被験者をいきなり絶望に追い込むことはせずに、まず被験者の希望を膨らまさせ、その後でそれを潰すことによって諦めさせて自殺させるという手法を使ったとされています。ですが、普通の人間ならば、たとえそんな手法を使われたとしても、簡単に自殺などしないと考えられるところです。
(注4)上記「注3」で触れているように、6人の内2人が先ず自殺しますが、残る4人の内2人は、自殺によってではなく他人の手で殺されてしまいます(一人は、他人に自分のスイッチを押されて、モウ一人は施設から逃げる際に所長にピストルで殺されて)。
そうすると残るのは2人ですが、彼らは小出恵介と一緒に施設を逃げ出すのに成功します。ただ、その内の1人は、自分の家に戻って母親と再会した後、なぜか母親と一緒に自殺してしまうのです(彼は、希望が潰え去ったわけでもなく、むしろ母親と再会して希望が叶ったのですから、何ら絶望しないにもかかわらず自殺したことになります)。
(注5)自殺対策推進室長は、小出恵介に向かって、「君は、希望を持っていないから絶望もしない、だから自殺はしないと思っていた」と言いますが、果たして10歳の子供についてそんなことが判定できるのでしょうか?
(注6)そのことによって小出恵介は、6人の被験者に、彼自身も被験者であることがバレてしまいます。
(注7)あるいは、“極限状況における被験者の行動”といったものを分析したといえるかもしれません。ですが、110分の映画の中で、7人もの被験者1人1人の行動について分析するなど、時間的に無理でしょうし、元々スタートは10歳の子供を被験者としするわけですから、それぞれの過去の経験など乏しいに相違なく、きちんとした分析に堪えられないのでは、と考えられるところです(実際にも、アッという間に、小出恵介と水沢エレナの2人きりになってしまいます)。
(注8)「注5」で触れたように、自殺対策推進室長は、「絶望」を「自殺」に結びつけて考えているところからすると、母親と再会して自殺した少年や、小出恵介と水沢エレナが取った行動は、その考え方に大きく反するものといえ、あるいは彼らは室長に一矢報いたのではないでしょうか?
ところで、原作『スイッチを押すとき』(山田悠介著、角川文庫)では、すべてを本部長(映画の室長に相当)がコントロールしていましたが、最後の最後になって、本部長の意図していたところと違って、主人公のスイッチを押すのは一緒に逃げた女子の被験者なのです(彼女も自分のスイッチを押しますが)。
なお、映画と原作とは様々な点で異なっています。原作では、施設で一緒になる被験者は4人にすぎませんし、主人公と女子の被験者が恋愛関係になることもありません。設定される時代も2030年ですし、やはりここでも映画と原作とは別物と考えた方がよさそうです。
(注9)『平成23年版 自殺対策白書』の第1章第15節「外国人の自殺の状況」には、「主要国の自殺死亡率について世界保健機関によれば、ロシア30.1、日本24.0、フランス17.0、ドイツ11.9、カナダ11.3、米国11.0、英国6.4、イタリア6.3となっている」と述べられています。
(注10)上記「注9」の『平成23年版 自殺対策白書』の第1章第4節「年齢階級別の自殺の状況」では、次のように述べられています。
「年齢階級別の自殺者数について人口動態統計によれば、男性については、昭和30年前後に15~34歳の階級が、60年前後に35~54歳の階級が、平成10年以降に45~64歳の階級がそれぞれ大きな山を形成している」。
「年齢階級ごとにそれぞれみると、15~24歳の階級は昭和30年前後に非常に大きな山を形成した後は、大きな変動はみられない」。
「女性については、昭和30年前後に15~34歳の階級が山を形成した後は、男性のような大きな変動はみられない。年齢階級ごとにみると、15~24歳の階級は昭和30年前後に大きな山を形成した後、減少傾向で推移している」。
「世代別の自殺の状況をみると、青少年(30歳未満)の自殺者数は、近年、全体の10%台前半のほぼ横ばいで推移しているが、自殺死亡率はやや増加傾向にある」。
要すれば、青少年の自殺については、昭和30年前後に大きな山があったものの、最近ではそれほどの変化は見られない、ということではないでしょうか。
★★☆☆☆
象のロケット:スイッチを押すとき
(1)チョット時間が空いたので映画でも見ようかなと思って、小出恵介が主演だということの他は、ほとんど情報なしに映画館に飛び込んだ次第です(注1)。
物語は、10代の青少年の自殺率が激増した原因を探るべく、10歳の子供を任意に一定数だけ選び出し、その心臓に起爆装置(「自殺補助装置」と言われています)を埋め込み、手渡したスイッチを押せば直ちに自殺できるようにする、という青少年自殺抑制プロジェクトが、15年前から国の管理の下で実施されます(今は2026年)。
時間の経過と共に、被験者は次々と自殺してしまい、このプロジェクトに根拠を与えていた法律も廃止されることになって、最後まで残った6名の被験者(全員17歳、うち1名が女子)は1ヵ所で厳重な監視の下に閉じ込められ、一刻も早い自殺が当局からは要請されています。
そこに、被験者を監視する職員として、新たに小出恵介が派遣されてきます(彼は25歳と設定されています)。
すると、これまで頑なに自殺を拒んできた被験者が次々に自殺するようになったのです。
いったい、この男はナニモノなのでしょうか、……。
しかしながら、このような粗筋を申し上げただけで、いくら近未来の話としても、トテモ考えられないような甚だ奇妙奇天烈な設定になっていることは明らかだと思われます。
a.青少年の自殺率が激増するといっても、10万人あたりせいぜい50人といったオーダーだと考えられますから(実際は30人程度であり、仮にそれが100人になるとしても)、一定数の被験者が10年以内に皆自殺する確率など極く極く低いのではと考えられます。
特に、被験者の中で自殺しないで残っているのがわずか6名なら、彼らが皆短期間の内に自殺する確率は、限りなくゼロに近いと考えられるところです。
b.それに元々、自殺者の意味のある心理状況を探るというのであれば、自殺する者の数を一定数以上集める必要があるところ、予め誰が自殺するのかなどまったく分からないのですから(特に10歳の子供なのですから!)、被験者を何十万人のオーダーとしなければならず、いくら近未来の話だとしても、そんなことは不可能でしょう(仮にそれが可能であるとしても、自殺しないで生き残る者の数は、6人などという僅かな数字とはならず、やはり何十万人というオーダーになるに違いありません!)。
c.被験者の心理状況を探るといっても、映画からすると、被験者に絵を描かせるか思いついたことをノートに書くように指導しているに過ぎず、そんなもので有意味な結果が得られるとはトテモ考えられないことです(映画では、このプロジェクトによって、青少年の自殺は劇的に減少し、それでこの実験は廃止されることになったとされていますが、一体どんな実験結果が得られたというのでしょうか?)。
d.仮にそんなやり方で自殺者の心理が解明できるとしても、子供達を無理矢理親達から引き裂いて一定の場所に監禁したうえで自殺を促すという方法では、普通の環境下にある一般の青少年の自殺行動とは違った心理状況(例えば拘禁症状)の下における特異な自殺心理しか調査できなくなってしまい、その調査結果から有意義な指針が得られるとは考えられません(注2)。
といったようなことから、映画の中に入り込もうとしても入り込めない甚だ奇妙な設定が、最初から設けられていると思います。
そうなれば、観客としてこの映画を見続けるには、自殺の心理を探るためという実験目的は取り敢えず括弧に入れておき、体の中に起爆装置を埋め込まれてしまった6人が、新たな監視員の小出恵介を迎えてどういう行動を取るのか、また小出恵介の役割は何なのか、なぜ小出恵介はそんな役割を担っているのか、といった方面に眼を向けざるを得なくなります。
そうしてみても、最後に残った6人は、通常の人よりも自殺志向が遙かに強いように設定されているとでも考えないと、ストーリーが展開しないように思われます。
というのも、小出恵介は、実のところは、6人を早いところ自殺に導くべく当局から派遣されてきた職員であって、その巧みな誘導によって、被験者の内の何人かははスグに自殺してしまうのですが、仮に皆が普通の人間ならば、いくら小出恵介が上手い方策を採ったとしても、そうは簡単に自殺などしないことでしょう(注3)!ですがそれでは、この物語は結末にたどり着けません(注4)。
とすると、この映画は、やはり自殺を抜きにして見ることが出来ないようなストーリーになっているようです。
常識と辻褄を合わせるには、この映画のストーリーは、あるいは次のようにも考えられるかもしれません。どういうやり方かまったく分かりませんが、自殺志向が一般の子供達よりも随分と強い子供達が選び出され、心臓に起爆装置が埋め込まれ、楽に死ねるようにスイッチが渡され、その結果15年の間に次々とその子供達は自殺していき、最後に6人が残ったが、彼らも小出恵介がやってくると、……、というような話です。
ですが、一体どのようにして自殺志向の強い子供を選び出すというのでしょうか(注5)?
もしそれが予め分かるのであれば、何もこんな実験をせずとも(無理矢理自殺時期を早めようとせずとも)、彼らの行動をそのまま監視すれば、意味のある調査結果が得られるのではないでしょうか?
それよりなにより、そうした子供達が自殺しないように、それこそ親達や学者などが血の滲むような努力をすることでしょう!
本作の物語は、最初の出だしから最後に至るまで大きく破綻しているのでは、と言わざるを得ないと思われます。
(2)あるいはこの映画は、以上クマネズミが拘った自殺の話は単なる背景であって、メインは小出恵介と水沢エレナの死に至る恋愛物語だ、と考えることも出来るかもしれません。
特に、2人は一緒に施設から逃げ出して、遊園地で観覧車に乗ったり、青函連絡船で北海道に渡り、広々とした草原に行き着いたりするところなどは、随分と時間を取って逃避行として上手く描かれていると思います(ただ、2026年になっても、北海道へ渡る手段として青函連絡船が選ばれ、なおかつそれに3等船室があるという想定は可能なのかどうか分かりませんが)。
それに、極めて大切と考えられるスイッチを、被験者は単にポケットに入れて持ち歩いているだけで、小出恵介などは、被験者と争っている最中にそれを落としてしまうくらいの杜撰さです(注6)。
また、小出恵介は、水沢エレナと施設を逃げ出してから海岸に出ると、2人のスイッチを海に放り投げてしまいますが、随分と簡単にそんなことができるのだな、と唖然としてしまいます(ただ、他にはそんなシーンは描かれません。施設にいるときにそんなことをしたら、厳しく罰せられるでしょうし、予備のスイッチがいくらでもあるでしょうから、被験者には無意味な行為だと分かっていたのでしょう)。
こんなところを見ると、スイッチにそれほど重きが置かれているとは思えず、そうであれば「自殺」自体に焦点が当てられてはいなくて、それは何か別の事柄を象徴していると考えた方が良さそうにも思えてきます(注7)。
とはいえ、冒頭でこのプロジェクトの内容が説明され、さらにラストで、すべてはこの実験を総括している「自殺対策推進室長」(田中哲司)の手の内で踊らされていたことなのだと分かると、被験者は室長の操り人形のように取り扱われていたのだな、別の解釈の余地などないのでは、と思えます。なにしろ、自殺対策推進室長は、その当初の思惑通り、この実験を完全な姿で終結させることができたわけですから(注8)。

出演の俳優は、しかしながら、小出恵介を始めとして皆好演していると思います。
特に、『日輪の遺産』で主計中尉役を演じた福士誠治が、こちらでは小出恵介の同僚の監視員役を演じていることや、また施設の所長役の西村雅彦は、『Dear Heart』と同じようなエキセントリックな演技が注目されるところです。

また、水沢エレナは、まだ19歳ながら難しい役どころをよくこなしていて、これからが期待されるでしょう。

(3)なお、最近の日本における自殺については、青少年に問題があるというよりも、むしろ全体の自殺率が他の先進諸国と比べても高いことと、中高年の自殺者が急増していることが問題点として挙げられています〔以下、Wikipediaの「自殺」の項によっています〕。
すなわち、日本の2010年の「自殺率(人口10万人あたりの自殺者数)は24.9人」であり(注9)、また「総自殺者数は31690人」と3万人を超え(12年連続)、「1998年以降現在にいたるまで、自殺率は戦後3度目にして最大のピークの最中であり、ピーク以前と比べ、自殺者が20%~50%増加し」、とりわけ「今回のピークの原因は不況によるものと推測されており、不況の影響を受けやすい中高年男性でピーク後の自殺率が特に急増している」とのこと。
こうした状況を見るにつけても、本作は焦点がかなり外れてしまっていると言えるのではないでしょうか(注10)?
(注1)小出恵介が出演した映画としては、『初恋』(2006年:この記事の(2)を参照)、『キサラギ』(2007年)、『パレード』といったところが印象に残ります。
(注2)彼らはズーッと施設の中に閉じ込められていて満足に教育も受けさせてはもらっていませんから、「体は大きくとも、頭の中は空っぽ。遊び道具を持っていても、誰も何もしない」などと映画の中で言われています。そんな特殊な精神状態の者についての調査結果は、とても一般化出来ないのではと考えられます。
(注3)小出恵介は、母親からの手紙が見つかったと一人の少女にそれを手渡します(外部からの連絡は一切禁じられていたにもかかわらず)。そこに、赤ちゃんが生まれたと書いてあるのを読んで、その少女は、自分は親から見放されてしまったとスグにスイッチを押してしまいます(4年半ぶりの死者とさます)。
また、他の同じような施設に監禁されている幼馴染みの少女に手紙を送り届けることを請け合った小出恵介から、その少女が死んだことを知らされた少年も、彼女を助け出そうとしていた望みが無意味になってしまったと、またすぐにスイッチを押してしまいます。
いずれの場合も、小出恵介は、被験者をいきなり絶望に追い込むことはせずに、まず被験者の希望を膨らまさせ、その後でそれを潰すことによって諦めさせて自殺させるという手法を使ったとされています。ですが、普通の人間ならば、たとえそんな手法を使われたとしても、簡単に自殺などしないと考えられるところです。
(注4)上記「注3」で触れているように、6人の内2人が先ず自殺しますが、残る4人の内2人は、自殺によってではなく他人の手で殺されてしまいます(一人は、他人に自分のスイッチを押されて、モウ一人は施設から逃げる際に所長にピストルで殺されて)。
そうすると残るのは2人ですが、彼らは小出恵介と一緒に施設を逃げ出すのに成功します。ただ、その内の1人は、自分の家に戻って母親と再会した後、なぜか母親と一緒に自殺してしまうのです(彼は、希望が潰え去ったわけでもなく、むしろ母親と再会して希望が叶ったのですから、何ら絶望しないにもかかわらず自殺したことになります)。
(注5)自殺対策推進室長は、小出恵介に向かって、「君は、希望を持っていないから絶望もしない、だから自殺はしないと思っていた」と言いますが、果たして10歳の子供についてそんなことが判定できるのでしょうか?
(注6)そのことによって小出恵介は、6人の被験者に、彼自身も被験者であることがバレてしまいます。
(注7)あるいは、“極限状況における被験者の行動”といったものを分析したといえるかもしれません。ですが、110分の映画の中で、7人もの被験者1人1人の行動について分析するなど、時間的に無理でしょうし、元々スタートは10歳の子供を被験者としするわけですから、それぞれの過去の経験など乏しいに相違なく、きちんとした分析に堪えられないのでは、と考えられるところです(実際にも、アッという間に、小出恵介と水沢エレナの2人きりになってしまいます)。
(注8)「注5」で触れたように、自殺対策推進室長は、「絶望」を「自殺」に結びつけて考えているところからすると、母親と再会して自殺した少年や、小出恵介と水沢エレナが取った行動は、その考え方に大きく反するものといえ、あるいは彼らは室長に一矢報いたのではないでしょうか?
ところで、原作『スイッチを押すとき』(山田悠介著、角川文庫)では、すべてを本部長(映画の室長に相当)がコントロールしていましたが、最後の最後になって、本部長の意図していたところと違って、主人公のスイッチを押すのは一緒に逃げた女子の被験者なのです(彼女も自分のスイッチを押しますが)。
なお、映画と原作とは様々な点で異なっています。原作では、施設で一緒になる被験者は4人にすぎませんし、主人公と女子の被験者が恋愛関係になることもありません。設定される時代も2030年ですし、やはりここでも映画と原作とは別物と考えた方がよさそうです。
(注9)『平成23年版 自殺対策白書』の第1章第15節「外国人の自殺の状況」には、「主要国の自殺死亡率について世界保健機関によれば、ロシア30.1、日本24.0、フランス17.0、ドイツ11.9、カナダ11.3、米国11.0、英国6.4、イタリア6.3となっている」と述べられています。
(注10)上記「注9」の『平成23年版 自殺対策白書』の第1章第4節「年齢階級別の自殺の状況」では、次のように述べられています。
「年齢階級別の自殺者数について人口動態統計によれば、男性については、昭和30年前後に15~34歳の階級が、60年前後に35~54歳の階級が、平成10年以降に45~64歳の階級がそれぞれ大きな山を形成している」。
「年齢階級ごとにそれぞれみると、15~24歳の階級は昭和30年前後に非常に大きな山を形成した後は、大きな変動はみられない」。
「女性については、昭和30年前後に15~34歳の階級が山を形成した後は、男性のような大きな変動はみられない。年齢階級ごとにみると、15~24歳の階級は昭和30年前後に大きな山を形成した後、減少傾向で推移している」。
「世代別の自殺の状況をみると、青少年(30歳未満)の自殺者数は、近年、全体の10%台前半のほぼ横ばいで推移しているが、自殺死亡率はやや増加傾向にある」。
要すれば、青少年の自殺については、昭和30年前後に大きな山があったものの、最近ではそれほどの変化は見られない、ということではないでしょうか。
★★☆☆☆
象のロケット:スイッチを押すとき
スイッチ捨てちゃうところなんか正に典型的ですよね。例えば自分から1m以上はなれたら自動的にスイッチが押されてしまうとかないとそもそも設定自体成立しないですし。
おっしゃるように、山田悠介氏原作の作品を見る以上は、「こういうものだと思って見るしかない」のでしょう。
それに、同じ新宿武蔵野館で見た『レポゼッション・メン』の到底受け容れがたい設定も、「そんなに突飛なものではない」とするブロガーも存在することですから、映画のフィクショナルな設定自体をいくら言い募っても意味がないのかもしれません!
レポ・メンを突飛でないとする派です(笑)。
基本的に嘘の話なので、嘘が成立するよう世界の設定も違うなんだろうと思ってます。
> 青少年の自殺率が激増するといっても、10万人あたりせいぜい50人といったオーダーだと考えられます
多分、もっと高率で小学生のうちに10人に1人や2人が自殺してしまうような世界設定なのでしょう(じゃないと被験者の方が自殺率をうわまってしまうし、強引な立法設定に違和感が生じる)。それらの多くの原因がイジメなどの学生生活にあり、彼らを監禁するのはその学園生活を凝縮体験させるため。明確に教育機関側に自殺の原因があるなら、家庭でのガス抜きができなくなるので、このやり方の方が自殺率が高くなります。一応、ノートとかはあるけど、監視カメラでの集団行動監視の方が理由把握には役立っているでしょう。
設定はどうあれ、話はつまらんかったと思います。
まさかこの映画を「ふじき78」さんがご覧になるとは思いもしなかったので!
まさに天網恢々ですね。「「そんなに突飛なものではない」とする冷酷な人のブロガーも存在する」などと書かなくて良かった(笑)!!
さて、青少年の自殺率が激増するとして、おっしゃるように「小学生のうちに10人に1人や2人が自殺してしまうような世界設定」だとしたら、10万人当たり1万人というオーダーで、現在のおよそ300倍もの規模になってしまいます。これが、例えば100年後の話であればまだしも、この映画の出発点は今(2011年)なのです。今10歳の子供の中から一定数を選び出して手術を施し、15年間監視を続けたら、2026年に6人だけが生き残ったという話にすぎません。それはありえないオカシナ話ではないでしょうか?
それに、「10人に1人や2人が自殺してしまうような世界設定」だとしたら、日本の人口(1億3千万人)に引き当てれば、自殺者数は1300万人のオーダーとなってしまい、スグにも日本の国家は衰亡してしまい、こんな無意味な実験をやっている余裕など残っていないのではないでしょうか?
なお、「被験者の方が自殺率をうわまってしまう」とありますが、これは「被験者の方が自殺者数をうわまってしまう」という意味だと思いますが、いくら自殺率を高く設定しても、被験者数=自殺者数でない限り、被験者数の方が自殺者数を上回る可能性が残るのではないでしょうか?まして、現実の自殺率の数倍くらいの設定(それでも“超々”激増と考えられます)ならば、15年後に生き残っている者の数は随分になるのではないでしょうか?
また、青少年の自殺の「多くの原因がイジメなどの学生生活にあ」るとは、映画では予め判断されておらず、どういう原因で彼らが自殺するのかを調査するのが実験の目的なのではないでしょうか?予め「明確に教育機関側に自殺の原因がある」ことが分かっているのであれば、こんな実験をする意味は、本来的に存在しないのではないでしょうか?
例えば小松左京が書いた「日本沈没」は実際に存在するプレートの動きと合わないけれど、そこをあえて違う動きをしたらどうなるかを書いた小説です。そこを「ありえない」と言ってしまうと話が進まなくなる。
「10人に1人や2人」は毎年のべつまくなくではなく、中学になってから小学時代の事を思い出すとクラスの中で5人くらいは自殺している、みたいなニュアンスで考えてました(統計的に正しいかどうかは不明)。
あの世界では、あまり、子供以外は自殺している印象がないですし。いきなり1/10の国民が毎年減ったりもしないと思います。
小松左京氏の『日本沈没』は、1973年(昭和48年)に刊行されたもので、Wikipediaの「日本沈没」の項によれば、小説で駆使された「プレート・テクトニクス」は、「当時やっと広く認知され始めていた」ものでした。ですから、当時それを読んだ人々は、かなりのリアリティをそこに感じたのではないでしょうか(とはいえWikipediaでも、「現実に日本列島が沈没する可能性」はほとんどないとされていますが)?
それが、今度の東日本大震災。小松左京氏が見直され始めたと思ったら、7月下旬に亡くなってしまいました。
さて、SFの色々の設定は、現実のものではないのですから、「ありえない」と言ってしまえばどれもありえないものばかりでしょう。ただそれは、別にSFとは限りません。一般の小説でも何でも、そもそもフィクションなのですから、「ありえない」と言えばありえない話ばかりです。
ではどうして、これはよくてあれはダメなのでしょうか?
ですが、そんなことは、大昔からそれこそ様々に議論され続けられてきて、全然決着がつかない問題だと思われます。
こうなると、作者の力量としか言いようがないのかもしれません。
いずれにせよクマネズミは、『日本沈没』にリアルなものを感じますが、『スイッチを押すとき』の原作と映画にはリアルなものを感じませんでした。
なお、「中学になってから小学時代の事を思い出すとクラスの中で5人くらいは自殺している、みたいなニュアンス」とありますが、これを仮に50人学級で6年間で5人、毎年平均1人くらいと考えると、例えば、10歳の人口約100万人では2万人に相当します。「子供以外は自殺している印象がない」ということで小学校時代だけに自殺が集中するとしても、毎年12万人の自殺ということになります。現在、全部で3万人の自殺ということで大問題になっているところ、小学生だけで、その4倍の自殺者数というのは、「2011年」の想定としてとても「ありえない」と考えるのですが。
拙ブログにトラックバックとコメント賜りましてありがとうございます。
いつもありがとうです<(_ _)>
クマネズミさんはこちらの作品は全然肌に合わなかったようで(笑)
逃走に関わったらどうなるかとか、自殺を抑制する為に組んだプロジェクトに命を犠牲にしてまで成果があったとしているがそれを納得させる説明が無い。2人で北海道に逃走するあの場面にはあまり意味が無いようなといった所でしょうか?
ちょっと展開も面白味にかけたようですね。
確かに不可解だと思われる部分は多いですが。
私、時代背景や状況は後付けだと思って観てました。
実験が始まった根拠や成果は別に重要ではなくてお客さんの心臓をどれだけ揺さぶって泣かせたか、かもしれませんね(笑)
小説の話で恐縮ですが結局南洋平はスイッチを押すことも無く、高宮真沙美の兄だと知らされる事なく死んで行った事は堺達に一矢報いたと事になったと見なしていいのでしょうか?
堺達の目的はしぶとく生き残っている南洋平に自殺装置のスイッチを押させる事が出来るかどうかなのですから。
後でスイッチが南洋平自身の手で押されなかったと判明したら堺達はどうなるのでしょう。
一番可哀想な人はお母さんだったわけですが映画に出て来ませんでしたね。
映画ではラストは南洋平が亡くなったのかハッキリ分からなかったのですが…。
と
クマネズミさんのブログでつぶやいてしまいましたww
お許しを。
若い子達が死ななければならない集団が登場する小説に「生贄のジレンマ」や「わたしを離さないで」があったと思います。
山田悠介さんの作品では他作品と違い主人公達が逃走してリアルに浦島太郎する場面があるのでそこは共感出来ました。
しかし結局、救いの無い話で終わってしまいましたね。
最近は解決しない話の括り方が流行りなのでしょうか?
長々と書き込み失礼しました。
お許し下さいませ。
確かに重要なのは、「お客さんの心臓をどれだけ揺さぶって泣かせたか」かもしれませんが、感受性の乏しいクマネズミの場合、物語の基本的な設定に納得がいかない場合、その後の展開がどうあろうとも、「心臓」を揺さぶられたり涙腺を刺激されたりしないのです(「時代背景や状況」とか「実験が始まった根拠や成果」については、「後付け」でも何でもかまいませんが、それらが説得力を持つかどうかは、作品の迫力にとって大層重要なファクターではないか、と思っています。この作品の場合、そうしたものがマッタク説得力を持ってはいないがために、残った6人が次々に死んでいっても、一体全体どうしてなのか、と訝しく思っただけでした)。
また、原作小説の場合の本部長(映画では室長)は、自分は実験プロジェクトのすべてをコントロール出来ていると思い込んでいますから、その考え方に沿わない死に方をした南は、原作でも映画でも、一矢報いたものと考えられます。
ただ、その場合でも、本部長(あるいは室長)は、単に例外的な事柄が起きたに過ぎないとして、まったく意に介さないでしょうが。
いずれにしても、こうした人体実験は、ナチスが強制収容所で行ったものと類似していて、酷くおぞましく、本部長(あるいは室長)にはSS幹部の怨霊が取り憑いているか如くです。
さらに、「映画ではラストは南洋平が亡くなったのかハッキリ分からなかった」とありますが、本文で書きましたように、当然に彼はスイッチを押したとクマネズミは考えております。
なお、「山田悠介さんの作品では他作品と違い主人公達が逃走してリアルに浦島太郎する場面があるのでそこは共感出来ました」とありますが、具体的にどの場面を指しているのか説明していただけると大変有り難いと思います。
ちょっと故郷を離れていたと思ったら実際には長い年月が流れていて、自分の容姿も社会の様子も変わっている&自分を知る人間がいなくなっていたお話です。
しかし、南達には世代交代する程の年月は経っていませんから違いますね。。(-ω-;)ヽ
早速回答していただき誠にありがとうございます。
「愛知女子」さんのコメントに、「主人公達が逃走してリアルに浦島太郎する場面」とありましたので、アレッ施設を逃走してからほんの僅かの日数しか経っていないのに「浦島太郎する」とはいったいどんな意味なのだろう、と思ってしまったものですから、ご質問させていただきました。
要すれば、南ら逃亡した者にとっては、施設に入ってから7年も経過すると「浦島太郎」状態になっているのではないか、ということなのですね。
確かに、「南達には世代交代する程の年月」は経過していませんが、幼い内の「7年間」は容貌等の変化が激しいでしょうし、日本の場合は「7年」も経過すると社会が大きく変わっている可能性がありますから、彼らが「浦島太郎」化することは大いにあり得ると思います。
ただ、そうした点からすれば、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』の場合、ルースらは、生まれたときからクローン人間として隔離されていますから、施設を離れたときの違和感はモットズッと大きいのではないかと思われますが(元々、帰るべき場所を持っていないので、「浦島太郎」ともいえないのかもしれませんし)。