
『この国の空』をテアトル新宿で見ました。
(1)脚本家の荒井晴彦氏の監督作品ということで、映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭は、昭和20年の東京・杉並(注2)。
雨が激しく降る音がし、またヴァイオリンの音が流れています。
次いで、雨が降っている庭の防空壕が映し出されます。
娘の里子(二階堂ふみ)が、防空壕の扉を開けて、「中に水が溜まっている。汲み出さないといけない」と指摘すると、母親の蔦枝(工藤夕貴)が「女二人では無理」と答えます。
それを耳にした隣家の市毛(長谷川博己)が「どうしました?」と尋ねます。
里子が「防空壕に水が溜まってしまって」と答えると、市毛は「ウチのを使えばいい。昼間はたいてい留守にしていますから」と申し出ます(市毛の妻と娘は疎開しています)。
その申し出に二人は感謝しますが、里子が「昨晩、ヴァイオリンを弾いていませんでした?」と尋ねると、市毛は「聞こえましたか」と答え、さらに里子は「縁側のガラス戸に紙が貼ってありませんね」と言います。市毛が「檻の中にいるみたいで嫌なんです」と答えると、里子が「今度、私がやります」と言います。
別の日、里子が、市毛の家でガラス戸に紙を貼りながら、「あの曲はなんというのですか?」と尋ねると、市毛は「メンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルト」と応じます。里子が「一度ちゃんと聞かせて欲しい」と言うと、市毛は「ちゃんと弾けないから、銀行員になったのですから」と答えます。
そして、紙が貼られたガラス戸を見ながら、市毛が「なんだか物哀しい感じですね」と言うと、里子も「そうですね。ガラス戸が怪我をして繃帯を巻かれているみたい」と応じます。

また別の日に、里子が「市毛さんは戦争に行かなくっていいのですってね」と言うと、市毛は「ずるいと思ってるでしょ」と応じ、里子が「違います。丙種と聞きましたが、昔病気なさったの?」と尋ねます。
これに対して市毛は、「当時は、体力の劣るものは皆丙種。それに、検査を受けたのは静岡で、周りは皆体格のいい百姓だった」と言います。
そして、「今年38だから、もう引っ張られはしないでしょう」と市毛が付け加えると、里子は「父が結核で死んだ年。私が12の時」、「祖父からの家作が3件世田谷にあって、その家賃で暮らしています」などと言います(注3)。
こんな風に里子と市毛は親しく話しをするようになりますが、さあ二人の関係はこの後どのように展開するのでしょうか、………?
本作は、先日見た『日本のいちばん長い日』の庶民版という感じで、空襲下にある東京・杉並で暮らす主人公一家を巡るお話です。母親と暮らす主人公の若い女性が、隣に住む男性に惹かれるところ、そうこうするうちに終戦を迎えてしまいます。主人公を演じる二階堂ふみはなかなか良くやっていますが、例えば、映画用にあつらえた様子が歴然としているセットで演じられると、仕方がないこととはいえ、何もかもが作り物ではないかという感じがなんとはなしにつきまとってしまいます(注4)。
(2)本作の脚本・監督が荒井晴彦氏だと聞いて、これまで見た脚本作品の『さよなら歌舞伎町』とか『海を感じる時』のように性的なシーンがいくつも盛り込まれた映画になるのかな、あるいは『戦争と一人の女』や『共喰い』と同様に、性的シーンのみならず体制批判的・反戦的な要素も加味された作品になるのかな、と心して見たものの、実際にはそういった面はずいぶんと押さえ込まれた描き方がされていて、少々面食らってしまいました。
それでも、本作について荒井監督自身が、「戦時下の19歳の女の子のロスト・ヴァージンを描いただけ」と言っているように(注5)、里子が市毛と関係をもつ場面が描かれたり、井戸で里子が全裸になって体を洗うシーンが映し出されたりします(注6)。
また、荒井監督は、「〔ラストのシーン(注7)に〕戦後に生まれて育ってきたわれわれの世代からの「戦後批判」が重ねられるんではないかと思った」と述べており(注8)、その政治姿勢を引っ込めたわけでもなさそうです。
とはいえ、せいぜいそのくらいのところであり、これまで荒井氏の脚本に特色的と思えた面が、本作ではずいぶんと抑制気味に取り扱われていて、その分クマネズミには好ましい作品だなと思えたところです。
そういえば、荒井氏は『大鹿村騒動記』の脚本も書いていて、そこでは300年の伝統がある大鹿村歌舞伎を現代において引き継いでいく意義といったものがコミカルに描かれていたなと思い出し、人をあまり先入観で推し量ってはいけない、と自戒したところです。
ただ、今どきそんな古い家が存在しないでしょうから仕方がないことながら、里子の住む家や隣の市毛の家などが、スタジオ内に作られたセットであることが如実に感じられて、どうも映画の中にうまく入り込めませんでした。

むろん、セットにしても、当時の新興住宅地の家を資料に基づいて上手に再現したに違いないでしょう(注9)。しかしながら、例えば、防空壕はどの家も皆庭に作ったのでしょうか(注10)、また庭がのっぺりとしすぎていて、なんだか土の下にコンクリートの床があるような感じがします(あのようなところでトマトが育つものでしょうか)。
こうしたものは、演劇の舞台と同じで、大体のところが当時のものと合致していれば、あとは想像力で補うこととして構わないわけでしょう。でも、ちょっと違和感を覚えると、物語自体にもいささか胡散臭さを感じることになります。
例えば、本作では19歳の里子と38歳の市毛との関係にもっぱら焦点が当てられているところ、44歳の工藤夕貴が扮する母親・蔦枝とか、46歳の富田靖子が扮する叔母・瑞江とかと市毛との関係は、どうして何も描かれていないのでしょう(注11)?
特に、蔦枝に関しては、里子と一緒に田舎に食糧の買い出しに行った際、河原で上半身裸になって体を洗うシーンが設けられていますが、それを見ると、むしろ彼女と市毛が関係を持ったほうが自然なのではと思えてしまいます(注12)。
それと、最後に茨木のり子氏の詩「わたしが一番きれいだったとき」が里子によって朗読されますが、なんだか良い雰囲気で展開してきた映画が、最後になってさらに一歩ダメ押しされるような感じがして、なくもがなと思いました(注13)。
(3)渡まち子氏は、「戦争終結が決して単純な平和に結びつかず「これから自分の戦争が始まるのだ」と予見するラストは、この映画が成瀬の代表作「浮雲」のプロローグのように思えてならない」として60点をつけています。
前田有一氏は、「戦争というものは、当事者以外にとっては滑稽でばからしいものであると気づかせてくれる点でこの映画にはある種の価値があろう。しかし、このどこかノーテンキなシュール感は好みが分かれるはずだ」として40点をつけています。
白井佳夫氏は、「やがて敗戦を知ったヒロインが、いつか彼の妻子が帰る日を予感するクライマックス。その横顔のストップモーションに、茨木のり子の詩を重ねた映画オリジナルのラストが、胸をうつ。まるで、今の日本そのものをも、見据えたような」として★4つをつけています。
小梶勝男氏は、「戦闘場面はないが、まぎれもなく戦争映画だろう。戦時下の日常とはこうだったのかと、ふに落ちる気がした。それは我々の日常とも地続きでつながっている。名脚本家として知られる荒井晴彦の傑出した監督作だ」と述べています。
佐藤忠男氏は、「高井有一の小説を荒井晴彦が脚本化し監督も務め、あの敗戦にいたる日々を彷彿(ほうふつ)とさせた傑作である」と述べています。
(注1)監督・脚本は荒井晴彦。
原作は高井有一著『この国の空』(新潮文庫)。
(注2)原作小説では架空の「碌安寺町」とされていますが、劇場用パンフレット掲載の「物語」では「善福寺町」と記載されています。
(注3)念の為に、雑誌『シナリオ』9月号に掲載の本作のシナリオをチェックしてみたところ、掲載のものは「初稿」段階のシナリオにすぎず、出来上がった映画とは相当違っていることが分かり、驚きました(同誌に掲載されている「鼎談『この国の空』をめぐって」において、荒井監督は、「敢えて「シナリオ」では初稿を載せようと」と述べていますが、その意図はよくわかりません)。
(注4)出演者の内、最近では、二階堂ふみは『私の男』、長谷川博己は『ラブ&ピース』、富田靖子は『きみはいい子』、近所の一人暮らしの老人役の石橋蓮司は『紙の月』、近所に住む画家役の奥田瑛二は『ミロクローゼ』で、それぞれ見ました。
二階堂ふみは、本作で渾身の演技を披露して素晴らしいと思いましたが、相手役の長谷川博己は、銀行員という設定ですから仕方ありませんが、ちょっと優男すぎるのではと思いました。
(注5)雑誌『映画芸術』2015年夏号掲載の特別対談「少女の性の電圧を見つめる」より。
(注6)その他、里子が畳の上をゴロゴロ転がるシーンがありますが、「からだが火照ってしまう」様子を描いているように思われます(上記「注5」で触れた特別対談「少女の性の電圧を見つめる」における荒井監督の発言)。
さらに、原作小説で「身体が火照っているせいなのか、と里子は縁側へ出て、俯伏せに身体を横たえた。肌が床板にぴったりと貼付き、身体の芯の暑さが吸い出されて行くようであった」と書かれている箇所(P.270)が映像で映し出されもします。

(注7)「里子は私の戦争がこれから始まるのだと思った」との字幕が出て、里子の顔がストップモーションでクローズアップされていきます。
なお、字幕のフレーズは、原作小説には見出されません。
(注8)劇場用パンフレット掲載の「脚本・監督荒井晴彦に聞く」より。
(注9)劇場用パンフレット掲載の「制作記」において、プロデユーサーの森重晃氏は、「この時代の普通の家って資料もほとんど残っていないんです」としながらも、「里子たちが暮らす家は、関東大震災以降に建てられた(当時の)新興住宅地という設定なので、大体築15~20年という設定です。周囲に板塀を作ることで、ずいぶん雰囲気も変わりました」と述べています。
なお、上記「注5」で触れた「特別対談」において、作家の松浦寿輝氏は、「ちょっとセットっぽい印象があって、それがむしろとてもよかった」と述べています。
(注10)例えば、このサイトの記事のように、床下に作る場合もあったのではないでしょうか?
(注11)上記「注5」で触れた雑誌に掲載の「連続斗論14 この国の空」の中で、西部邁氏は、「当時の四十を超えた女性は、お婆さんの匂いが出る年齢ですよ。今の四十過ぎの女性とは比べようもない。~もうじき自分は無残な死に方をするなと思っている男にとっては、女の美しさもある種、抽象化、観念化されていて、すでに男性を知っている未亡人より、まだヴァージンの少女に美しさを感じたんでしょう」と述べていますが、そんなものでしょうか?
(注12)しかしながら、その際蔦枝は、「里子は大人になった。それを一番感じているのは市毛さん。市毛さんは見ている。あなたの近くには市毛さんしかいない。市毛さんがいてくれて喜んでいる。でも、あの人に気を許してはいけない」などと言って、市毛に向けて里子をけしかけている感じなのです(この場面は、原作小説の第3章でも同じように描かれています。ただし、原作小説では、里子は、蔦枝によってブラウスを脱がされてしまいますが)。

むしろ蔦枝は、瑞江が密かに豆を食べてしまったことで激しく言い争いをするなど、性欲よりも食欲の方に関心があるように描かれているように思えます。
(注13)なんだか、園子温監督の『ラブ&ピース』のラストで流れる忌野清志郎の「スローバラード」と同様、よく知られた凄くいい詩(歌)であることは間違いないにしても、逆にそうだからこそ、わざわざそんな詩(歌)をラストに持ってきてダメを押さなくともいいのではという感じです。
★★★☆☆☆
象のロケット:この国の空
(1)脚本家の荒井晴彦氏の監督作品ということで、映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭は、昭和20年の東京・杉並(注2)。
雨が激しく降る音がし、またヴァイオリンの音が流れています。
次いで、雨が降っている庭の防空壕が映し出されます。
娘の里子(二階堂ふみ)が、防空壕の扉を開けて、「中に水が溜まっている。汲み出さないといけない」と指摘すると、母親の蔦枝(工藤夕貴)が「女二人では無理」と答えます。
それを耳にした隣家の市毛(長谷川博己)が「どうしました?」と尋ねます。
里子が「防空壕に水が溜まってしまって」と答えると、市毛は「ウチのを使えばいい。昼間はたいてい留守にしていますから」と申し出ます(市毛の妻と娘は疎開しています)。
その申し出に二人は感謝しますが、里子が「昨晩、ヴァイオリンを弾いていませんでした?」と尋ねると、市毛は「聞こえましたか」と答え、さらに里子は「縁側のガラス戸に紙が貼ってありませんね」と言います。市毛が「檻の中にいるみたいで嫌なんです」と答えると、里子が「今度、私がやります」と言います。
別の日、里子が、市毛の家でガラス戸に紙を貼りながら、「あの曲はなんというのですか?」と尋ねると、市毛は「メンデルスゾーンのヴァイオリンコンチェルト」と応じます。里子が「一度ちゃんと聞かせて欲しい」と言うと、市毛は「ちゃんと弾けないから、銀行員になったのですから」と答えます。
そして、紙が貼られたガラス戸を見ながら、市毛が「なんだか物哀しい感じですね」と言うと、里子も「そうですね。ガラス戸が怪我をして繃帯を巻かれているみたい」と応じます。

また別の日に、里子が「市毛さんは戦争に行かなくっていいのですってね」と言うと、市毛は「ずるいと思ってるでしょ」と応じ、里子が「違います。丙種と聞きましたが、昔病気なさったの?」と尋ねます。
これに対して市毛は、「当時は、体力の劣るものは皆丙種。それに、検査を受けたのは静岡で、周りは皆体格のいい百姓だった」と言います。
そして、「今年38だから、もう引っ張られはしないでしょう」と市毛が付け加えると、里子は「父が結核で死んだ年。私が12の時」、「祖父からの家作が3件世田谷にあって、その家賃で暮らしています」などと言います(注3)。
こんな風に里子と市毛は親しく話しをするようになりますが、さあ二人の関係はこの後どのように展開するのでしょうか、………?
本作は、先日見た『日本のいちばん長い日』の庶民版という感じで、空襲下にある東京・杉並で暮らす主人公一家を巡るお話です。母親と暮らす主人公の若い女性が、隣に住む男性に惹かれるところ、そうこうするうちに終戦を迎えてしまいます。主人公を演じる二階堂ふみはなかなか良くやっていますが、例えば、映画用にあつらえた様子が歴然としているセットで演じられると、仕方がないこととはいえ、何もかもが作り物ではないかという感じがなんとはなしにつきまとってしまいます(注4)。
(2)本作の脚本・監督が荒井晴彦氏だと聞いて、これまで見た脚本作品の『さよなら歌舞伎町』とか『海を感じる時』のように性的なシーンがいくつも盛り込まれた映画になるのかな、あるいは『戦争と一人の女』や『共喰い』と同様に、性的シーンのみならず体制批判的・反戦的な要素も加味された作品になるのかな、と心して見たものの、実際にはそういった面はずいぶんと押さえ込まれた描き方がされていて、少々面食らってしまいました。
それでも、本作について荒井監督自身が、「戦時下の19歳の女の子のロスト・ヴァージンを描いただけ」と言っているように(注5)、里子が市毛と関係をもつ場面が描かれたり、井戸で里子が全裸になって体を洗うシーンが映し出されたりします(注6)。
また、荒井監督は、「〔ラストのシーン(注7)に〕戦後に生まれて育ってきたわれわれの世代からの「戦後批判」が重ねられるんではないかと思った」と述べており(注8)、その政治姿勢を引っ込めたわけでもなさそうです。
とはいえ、せいぜいそのくらいのところであり、これまで荒井氏の脚本に特色的と思えた面が、本作ではずいぶんと抑制気味に取り扱われていて、その分クマネズミには好ましい作品だなと思えたところです。
そういえば、荒井氏は『大鹿村騒動記』の脚本も書いていて、そこでは300年の伝統がある大鹿村歌舞伎を現代において引き継いでいく意義といったものがコミカルに描かれていたなと思い出し、人をあまり先入観で推し量ってはいけない、と自戒したところです。
ただ、今どきそんな古い家が存在しないでしょうから仕方がないことながら、里子の住む家や隣の市毛の家などが、スタジオ内に作られたセットであることが如実に感じられて、どうも映画の中にうまく入り込めませんでした。

むろん、セットにしても、当時の新興住宅地の家を資料に基づいて上手に再現したに違いないでしょう(注9)。しかしながら、例えば、防空壕はどの家も皆庭に作ったのでしょうか(注10)、また庭がのっぺりとしすぎていて、なんだか土の下にコンクリートの床があるような感じがします(あのようなところでトマトが育つものでしょうか)。
こうしたものは、演劇の舞台と同じで、大体のところが当時のものと合致していれば、あとは想像力で補うこととして構わないわけでしょう。でも、ちょっと違和感を覚えると、物語自体にもいささか胡散臭さを感じることになります。
例えば、本作では19歳の里子と38歳の市毛との関係にもっぱら焦点が当てられているところ、44歳の工藤夕貴が扮する母親・蔦枝とか、46歳の富田靖子が扮する叔母・瑞江とかと市毛との関係は、どうして何も描かれていないのでしょう(注11)?
特に、蔦枝に関しては、里子と一緒に田舎に食糧の買い出しに行った際、河原で上半身裸になって体を洗うシーンが設けられていますが、それを見ると、むしろ彼女と市毛が関係を持ったほうが自然なのではと思えてしまいます(注12)。
それと、最後に茨木のり子氏の詩「わたしが一番きれいだったとき」が里子によって朗読されますが、なんだか良い雰囲気で展開してきた映画が、最後になってさらに一歩ダメ押しされるような感じがして、なくもがなと思いました(注13)。
(3)渡まち子氏は、「戦争終結が決して単純な平和に結びつかず「これから自分の戦争が始まるのだ」と予見するラストは、この映画が成瀬の代表作「浮雲」のプロローグのように思えてならない」として60点をつけています。
前田有一氏は、「戦争というものは、当事者以外にとっては滑稽でばからしいものであると気づかせてくれる点でこの映画にはある種の価値があろう。しかし、このどこかノーテンキなシュール感は好みが分かれるはずだ」として40点をつけています。
白井佳夫氏は、「やがて敗戦を知ったヒロインが、いつか彼の妻子が帰る日を予感するクライマックス。その横顔のストップモーションに、茨木のり子の詩を重ねた映画オリジナルのラストが、胸をうつ。まるで、今の日本そのものをも、見据えたような」として★4つをつけています。
小梶勝男氏は、「戦闘場面はないが、まぎれもなく戦争映画だろう。戦時下の日常とはこうだったのかと、ふに落ちる気がした。それは我々の日常とも地続きでつながっている。名脚本家として知られる荒井晴彦の傑出した監督作だ」と述べています。
佐藤忠男氏は、「高井有一の小説を荒井晴彦が脚本化し監督も務め、あの敗戦にいたる日々を彷彿(ほうふつ)とさせた傑作である」と述べています。
(注1)監督・脚本は荒井晴彦。
原作は高井有一著『この国の空』(新潮文庫)。
(注2)原作小説では架空の「碌安寺町」とされていますが、劇場用パンフレット掲載の「物語」では「善福寺町」と記載されています。
(注3)念の為に、雑誌『シナリオ』9月号に掲載の本作のシナリオをチェックしてみたところ、掲載のものは「初稿」段階のシナリオにすぎず、出来上がった映画とは相当違っていることが分かり、驚きました(同誌に掲載されている「鼎談『この国の空』をめぐって」において、荒井監督は、「敢えて「シナリオ」では初稿を載せようと」と述べていますが、その意図はよくわかりません)。
(注4)出演者の内、最近では、二階堂ふみは『私の男』、長谷川博己は『ラブ&ピース』、富田靖子は『きみはいい子』、近所の一人暮らしの老人役の石橋蓮司は『紙の月』、近所に住む画家役の奥田瑛二は『ミロクローゼ』で、それぞれ見ました。
二階堂ふみは、本作で渾身の演技を披露して素晴らしいと思いましたが、相手役の長谷川博己は、銀行員という設定ですから仕方ありませんが、ちょっと優男すぎるのではと思いました。
(注5)雑誌『映画芸術』2015年夏号掲載の特別対談「少女の性の電圧を見つめる」より。
(注6)その他、里子が畳の上をゴロゴロ転がるシーンがありますが、「からだが火照ってしまう」様子を描いているように思われます(上記「注5」で触れた特別対談「少女の性の電圧を見つめる」における荒井監督の発言)。
さらに、原作小説で「身体が火照っているせいなのか、と里子は縁側へ出て、俯伏せに身体を横たえた。肌が床板にぴったりと貼付き、身体の芯の暑さが吸い出されて行くようであった」と書かれている箇所(P.270)が映像で映し出されもします。

(注7)「里子は私の戦争がこれから始まるのだと思った」との字幕が出て、里子の顔がストップモーションでクローズアップされていきます。
なお、字幕のフレーズは、原作小説には見出されません。
(注8)劇場用パンフレット掲載の「脚本・監督荒井晴彦に聞く」より。
(注9)劇場用パンフレット掲載の「制作記」において、プロデユーサーの森重晃氏は、「この時代の普通の家って資料もほとんど残っていないんです」としながらも、「里子たちが暮らす家は、関東大震災以降に建てられた(当時の)新興住宅地という設定なので、大体築15~20年という設定です。周囲に板塀を作ることで、ずいぶん雰囲気も変わりました」と述べています。
なお、上記「注5」で触れた「特別対談」において、作家の松浦寿輝氏は、「ちょっとセットっぽい印象があって、それがむしろとてもよかった」と述べています。
(注10)例えば、このサイトの記事のように、床下に作る場合もあったのではないでしょうか?
(注11)上記「注5」で触れた雑誌に掲載の「連続斗論14 この国の空」の中で、西部邁氏は、「当時の四十を超えた女性は、お婆さんの匂いが出る年齢ですよ。今の四十過ぎの女性とは比べようもない。~もうじき自分は無残な死に方をするなと思っている男にとっては、女の美しさもある種、抽象化、観念化されていて、すでに男性を知っている未亡人より、まだヴァージンの少女に美しさを感じたんでしょう」と述べていますが、そんなものでしょうか?
(注12)しかしながら、その際蔦枝は、「里子は大人になった。それを一番感じているのは市毛さん。市毛さんは見ている。あなたの近くには市毛さんしかいない。市毛さんがいてくれて喜んでいる。でも、あの人に気を許してはいけない」などと言って、市毛に向けて里子をけしかけている感じなのです(この場面は、原作小説の第3章でも同じように描かれています。ただし、原作小説では、里子は、蔦枝によってブラウスを脱がされてしまいますが)。

むしろ蔦枝は、瑞江が密かに豆を食べてしまったことで激しく言い争いをするなど、性欲よりも食欲の方に関心があるように描かれているように思えます。
(注13)なんだか、園子温監督の『ラブ&ピース』のラストで流れる忌野清志郎の「スローバラード」と同様、よく知られた凄くいい詩(歌)であることは間違いないにしても、逆にそうだからこそ、わざわざそんな詩(歌)をラストに持ってきてダメを押さなくともいいのではという感じです。
★★★☆☆☆
象のロケット:この国の空
『海を感じる時』や『さようなら、歌舞伎町』と本作とで違った感じがするのは、それらは荒井晴彦氏が脚本だけにかかわり、本作ではそればかりか監督も引き受けたことも影響しているかもしれません。