『スープ~生まれ変わりの物語~』をシネマート新宿で見ました。
(1)評判がいいと聞きながら放っておいたら、今週で上映終了とのことで、慌てて見に行った次第です。
映画の冒頭では、教会の祭壇の前にウエディングドレスを着た女性が後ろ向きで立っている姿が映し出されますが、すぐに場面が切り替わって、主人公の渋谷(生瀬勝久)と娘・美加(刈谷友衣子)のシーンとなります。
この父娘はうまくいっておらず(注1)、原因は、妻に逃げられた駄目な人間と娘・美加が父親を見ているからのようです。
渋谷は、デザイン関係の仕事をしているところ、会社でも、娘のことが気になって仕事が手に付かず、社長から厳しく叱責されています。
その挙げ句、自分が取ってきた仕事にもかかわらず、社長の命令で、上司の綾瀬(小西真奈美)と一緒に出張する破目に。
出張の際も、綾瀬からさんざん嫌みを言われるのですが、交差点の信号待ちをしていたときに、突然雷のような電光に打たれ、気がついたときは綾瀬共々「あの世」にいる自分に気がつきます。
この「あの世」は、完全な死後の世界である「来世」と「現世」との中間地点とも言えるところで、ただ、いつ「来世」に行くのかは分かっておらず、逆に再度もとの「現世」に戻る方法もあるようです。
ですが、「現世」に戻るためには、その瀬戸際の場所で出される「スープ」を飲んで、「現世」の記憶をすべて消し去らなければならないとされています。
綾瀬は「現世」に忌まわしい思い出があって、「スープ」を飲んで「現世」に戻ってもいいと考えますが、他方の渋谷は、娘のことが忘れられませんから、「現世」に戻りたいものの「スープ」は飲めません。
ところが、うまくやれば、「スープ」を飲まずとも「現世」に戻れる方法があることが分かります。
渋谷はその方法を使って「現世」に戻りますが、さあ、うまく娘と再会できるのでしょうか、……?
映画は、渋谷が「現世」の戻ろうとするところまでの前半と、16年後の「現世」の有様が描かれる後半とに分かれてしまうものの、一貫して流れているのは、父親の渋谷が娘の美加を思う気持ちの強さです。
前半がややダレ気味ながら、映画の盛り上がりに向かって、まずまずうまく作られているなと思いました。
問題点もあると思いますが(注2)、クライマックスのシーンを見て、謝りたくても謝ることができない遠くに行ってしまった人が身近にいる場合には特に、そんなつまらないことはどうでもよくなって、感動してしまいます。
主演の生瀬勝久は、『劇場版TRICK』などで見受ける極度のハチャメチャぶりはすっかり影をひそめ、娘を思う父親の役柄を実に巧みにこなしていて、演技の幅の広いところがうかがえます。
また、綾瀬役の小西真奈美も、『のんちゃんのり弁』や『行きずりの街』、『東京公園』に出演しているのを見ましたが、部下の渋谷を悪しざまに言う一方で、次第に渋谷に惹かれて行くというなかなか難しい役柄を持ち前の演技力でよく演じていると思いました。
(2)娘を思う父親の気持ちを描き出すという映画全体の意味合いからすれば、16年後の「現世」の有様が描かれる後半に力点があるのでしょう。
ですが、見ている者としては、やや単調さを感じるものの、やはり「あの世」の様子が描かれる前半に興味が湧いてしまいます。
なにしろ、谷村美月と堀部圭亮が、突然「あの世」に投げ込まれた人たちに対して「あの世」の状況をもっともらしく説明し(ですが何の確たる情報もありません)、次いで渋谷と綾瀬が「あの世」の中に入って行くと、取引先の社長でこの間亡くなったばかりの石田(松方弘樹)に遭遇、彼の案内で酒を飲んだりディスコで踊ったりと、随分と楽しい時間を過ごしたりするのですから。
こんなことから思いだされるのは、最近のものでは(注3)、『大木家のたのしい旅行』。同作では、新婚の2人が「地獄」巡りをするところ、そこはツアーで行っても十分に楽しめる場所として描かれているのです。
他方で、『ヒアアフター』とか『ツリー・オブ・ライフ』でも死後の世界が描かれてはいるものの、これらの作品とはだいぶ雰囲気が異なる感じです。
といっても、こんなことから日本人と西洋人の死生観の違いなどを論じても、お門違いも甚だしいでしょう。
(3)渡まち子氏は、「意外なほどの豪華キャストでおくる、ちょっぴり不思議な、でもとびきりハートウォーミングなヒューマン・ドラマからは、今を大切に、とのメッセージが伝わってくる」として65点をつけています。
(注1)美加は、せっかく父親が作ってくれた弁当の中身を、登校途中で捨ててしまいますし、誕生日の朝も、今夜一緒に食事をしようという父親に対して、友達と予定があると冷たく言い放ちます。
(注2)たとえば、
イ)渋谷の娘・美加は、渋谷が死んだあと、別の男と再婚している母親の下に引き取られ、一緒に暮らしていくうちに、父親に問題があるのではなく、不倫をしていた母親に問題があるとわかります。それで、美加は、父親の墓にお参りをする一方で、母親に辛く当たるようになります。
ですが、夫婦間の対立などというものは、どちらかに一方的な問題があるわけではなく、お互い様というのが一般的ではないでしょうか(母親は、「大人の事情」といって詳しくは話しませんが、言い分は必ずやあるに違いありません)?
それに、渋谷とその妻との間に離婚が成立していたとしたら、娘の面倒をどちらが見るのか、ということについても話がついているはずではないでしょうか?その際、母親が自分を引き取ってくれないとしたら、娘はまず母親を恨みに思うのではないでしょうか(娘は、自分が嫌っている父親の元に残されたというわけですから)?
そんなところから、渋谷とその娘との間がうまくいっていないという設定には、なんだか違和感を持ってしまうのですが。
ロ)渋谷は、「あの世」から「現世」に生まれ変わって、16年後に高校生・三上(野村周平)になっているわけですが、前回の「現世」で得た記憶はいつ頃から三上に発現していたのでしょうか?
映画で高校生の三上は、クラスメートの瞳(広瀬アリス)が、「あの世」で出会った石田(松方弘樹)であることが突然わかり、また唐突に、自分が昔住んでいた場所を探しまわり、ついには、娘の結婚式場を探し当てるのです(映画の冒頭は、そこにつながります)!
でも、前回の「現世」の記憶が生まれたときから保持されているのであれば、それまでにも、瞳が石田だと気づく機会はいくらでもあったはずでしょうし、元の家の周辺をすでに何度も探し回っていたはずではないでしょうか〔高校生の三上は、自分の記憶(16年間の)と渋谷の記憶(50年間の)の二つを持っているはずですから(ということは、通常人の2倍の脳の容量?)〕?
(注3)以前のものでは、例えば、是枝監督の『ワンダフルライフ』(1999年)など。
★★★☆☆
象のロケット:スープ
(1)評判がいいと聞きながら放っておいたら、今週で上映終了とのことで、慌てて見に行った次第です。
映画の冒頭では、教会の祭壇の前にウエディングドレスを着た女性が後ろ向きで立っている姿が映し出されますが、すぐに場面が切り替わって、主人公の渋谷(生瀬勝久)と娘・美加(刈谷友衣子)のシーンとなります。
この父娘はうまくいっておらず(注1)、原因は、妻に逃げられた駄目な人間と娘・美加が父親を見ているからのようです。
渋谷は、デザイン関係の仕事をしているところ、会社でも、娘のことが気になって仕事が手に付かず、社長から厳しく叱責されています。
その挙げ句、自分が取ってきた仕事にもかかわらず、社長の命令で、上司の綾瀬(小西真奈美)と一緒に出張する破目に。
出張の際も、綾瀬からさんざん嫌みを言われるのですが、交差点の信号待ちをしていたときに、突然雷のような電光に打たれ、気がついたときは綾瀬共々「あの世」にいる自分に気がつきます。
この「あの世」は、完全な死後の世界である「来世」と「現世」との中間地点とも言えるところで、ただ、いつ「来世」に行くのかは分かっておらず、逆に再度もとの「現世」に戻る方法もあるようです。
ですが、「現世」に戻るためには、その瀬戸際の場所で出される「スープ」を飲んで、「現世」の記憶をすべて消し去らなければならないとされています。
綾瀬は「現世」に忌まわしい思い出があって、「スープ」を飲んで「現世」に戻ってもいいと考えますが、他方の渋谷は、娘のことが忘れられませんから、「現世」に戻りたいものの「スープ」は飲めません。
ところが、うまくやれば、「スープ」を飲まずとも「現世」に戻れる方法があることが分かります。
渋谷はその方法を使って「現世」に戻りますが、さあ、うまく娘と再会できるのでしょうか、……?
映画は、渋谷が「現世」の戻ろうとするところまでの前半と、16年後の「現世」の有様が描かれる後半とに分かれてしまうものの、一貫して流れているのは、父親の渋谷が娘の美加を思う気持ちの強さです。
前半がややダレ気味ながら、映画の盛り上がりに向かって、まずまずうまく作られているなと思いました。
問題点もあると思いますが(注2)、クライマックスのシーンを見て、謝りたくても謝ることができない遠くに行ってしまった人が身近にいる場合には特に、そんなつまらないことはどうでもよくなって、感動してしまいます。
主演の生瀬勝久は、『劇場版TRICK』などで見受ける極度のハチャメチャぶりはすっかり影をひそめ、娘を思う父親の役柄を実に巧みにこなしていて、演技の幅の広いところがうかがえます。
また、綾瀬役の小西真奈美も、『のんちゃんのり弁』や『行きずりの街』、『東京公園』に出演しているのを見ましたが、部下の渋谷を悪しざまに言う一方で、次第に渋谷に惹かれて行くというなかなか難しい役柄を持ち前の演技力でよく演じていると思いました。
(2)娘を思う父親の気持ちを描き出すという映画全体の意味合いからすれば、16年後の「現世」の有様が描かれる後半に力点があるのでしょう。
ですが、見ている者としては、やや単調さを感じるものの、やはり「あの世」の様子が描かれる前半に興味が湧いてしまいます。
なにしろ、谷村美月と堀部圭亮が、突然「あの世」に投げ込まれた人たちに対して「あの世」の状況をもっともらしく説明し(ですが何の確たる情報もありません)、次いで渋谷と綾瀬が「あの世」の中に入って行くと、取引先の社長でこの間亡くなったばかりの石田(松方弘樹)に遭遇、彼の案内で酒を飲んだりディスコで踊ったりと、随分と楽しい時間を過ごしたりするのですから。
こんなことから思いだされるのは、最近のものでは(注3)、『大木家のたのしい旅行』。同作では、新婚の2人が「地獄」巡りをするところ、そこはツアーで行っても十分に楽しめる場所として描かれているのです。
他方で、『ヒアアフター』とか『ツリー・オブ・ライフ』でも死後の世界が描かれてはいるものの、これらの作品とはだいぶ雰囲気が異なる感じです。
といっても、こんなことから日本人と西洋人の死生観の違いなどを論じても、お門違いも甚だしいでしょう。
(3)渡まち子氏は、「意外なほどの豪華キャストでおくる、ちょっぴり不思議な、でもとびきりハートウォーミングなヒューマン・ドラマからは、今を大切に、とのメッセージが伝わってくる」として65点をつけています。
(注1)美加は、せっかく父親が作ってくれた弁当の中身を、登校途中で捨ててしまいますし、誕生日の朝も、今夜一緒に食事をしようという父親に対して、友達と予定があると冷たく言い放ちます。
(注2)たとえば、
イ)渋谷の娘・美加は、渋谷が死んだあと、別の男と再婚している母親の下に引き取られ、一緒に暮らしていくうちに、父親に問題があるのではなく、不倫をしていた母親に問題があるとわかります。それで、美加は、父親の墓にお参りをする一方で、母親に辛く当たるようになります。
ですが、夫婦間の対立などというものは、どちらかに一方的な問題があるわけではなく、お互い様というのが一般的ではないでしょうか(母親は、「大人の事情」といって詳しくは話しませんが、言い分は必ずやあるに違いありません)?
それに、渋谷とその妻との間に離婚が成立していたとしたら、娘の面倒をどちらが見るのか、ということについても話がついているはずではないでしょうか?その際、母親が自分を引き取ってくれないとしたら、娘はまず母親を恨みに思うのではないでしょうか(娘は、自分が嫌っている父親の元に残されたというわけですから)?
そんなところから、渋谷とその娘との間がうまくいっていないという設定には、なんだか違和感を持ってしまうのですが。
ロ)渋谷は、「あの世」から「現世」に生まれ変わって、16年後に高校生・三上(野村周平)になっているわけですが、前回の「現世」で得た記憶はいつ頃から三上に発現していたのでしょうか?
映画で高校生の三上は、クラスメートの瞳(広瀬アリス)が、「あの世」で出会った石田(松方弘樹)であることが突然わかり、また唐突に、自分が昔住んでいた場所を探しまわり、ついには、娘の結婚式場を探し当てるのです(映画の冒頭は、そこにつながります)!
でも、前回の「現世」の記憶が生まれたときから保持されているのであれば、それまでにも、瞳が石田だと気づく機会はいくらでもあったはずでしょうし、元の家の周辺をすでに何度も探し回っていたはずではないでしょうか〔高校生の三上は、自分の記憶(16年間の)と渋谷の記憶(50年間の)の二つを持っているはずですから(ということは、通常人の2倍の脳の容量?)〕?
(注3)以前のものでは、例えば、是枝監督の『ワンダフルライフ』(1999年)など。
★★★☆☆
象のロケット:スープ
> 「現世」で得た記憶はいつ頃から三上に発現していたのでしょうか?
ですね。
この手の生まれ変わりの話はよくあるが、例えば『天国から来たチャンピオン』のように死んだ人の肉体を
借りるのが普通で『椿山課長の七日間』のように意識はそのままで性別が変わったり子供の体になって
しまったり、そのギャップに本人が戸惑ったり観客が面白がったりする。
今回もヤクザっぽい石田が女子高生として生まれ変わったり、少しだけその要素もあるが本人たちは当然
何の違和感も感じ(られ)ないので、やや違う。
それにしても3人が同じ高校の生徒として生まれ変わる御都合主義はやりすぎだが、話の都合上仕方ないか…
それにほかの2人は“記憶を持たない”で生まれ変わったはずなのに、ちゃんと前世の自分を覚えているという矛盾。
ともかくこの映画では記憶を持って“生まれ変わる”というのは(映画では描かれないが)文字どうりオギャーと
新しい人間として生まれ変わるわけです。なぜならば生まれ変わった三上たちは16年生きているわけですから。
(つまり3人はほぼ同時期に現生に戻ったから、ほぼ同年齢)
わざわざ0才から再スタートするなら実は前世の“記憶”を持って再生したはずなのに、その記憶は潜在意識にしか
存在せず“娘に会いたい”という強い強い意思すらも消えている(つまり記憶にないのと同じ)。
今回はある瞬間(例えば16才で)に湧き水のように出てきたから涙を誘うクライマックスとして娘と再会すること
になるのだが、もしかしたら死ぬまで出てこないかもしれない(16才である必然性はまったくない)。
しかし当然ながら自分は生まれ変わった父親だなんて告白しない。娘の方はなぜか父親の生まれ変わりだと信じたようだが…
その後“親子”は何らかの関係を続けるのか娘に会ったことで今度は前世の記憶は消えるのか…
『天国から来たチャンピオン』のように記憶はないはずなのに視線があったときデジャヴのように“何かを感じる”ほうが
感動的だったけど…
いずれにしろ、題名が『スープ』でありスープを飲まずに三途の川(?)に飛び込むことで“記憶を持ったまま”生まれ変われる、
というのが大前提のはずだが映画の中の台詞ですでに(例えば石田のように)スープを飲まなくても突然来世に行けたり
“実のところよく分からない”と言わせ“スープ”の意味するものが分からない。
本来は50才なら50年の記憶を持ったまま50才の(別の)人間としてエイリアンのように突然地上に降臨しなければ
“記憶を持っている”ことにならない。50年の記憶を持った0才が生まれたら例えば0才で外国語を喋ったり1才で
金儲けをしたり出来ることになってしまうし、記憶はないとしなければ新生活、新家族が始まることはありえない。
石田の母が死んだときの年齢のままであるように、あの場所では現世的な意味での時間は流れない。
それにしても着いた日から服が変わったり、当然貨幣はないのだろうが、人間としての欲はあり喧嘩も犯罪もあり殺人(?)だってあるかもしれないが、あの場所の仕組みがよく分からない。
おっしゃるように、本作については、「記憶を持ったまま」生き返るという点に、はなはだ違和感を感じてしまいます。
「“記憶を持ったまま”3回生まれ変わった」という「近藤」は、自分がどの自分なのか訳が分からなくなってしまうのではないでしょうか?
それに、「“スープ”の意味するものが分からない」のも確かです(登場人物がそういうのですから、始末に負えません!)。
でも、すべて「涙を誘うクライマックス」のためのものと考えてあげたくなってしまいます。