『きみはいい子』をテアトル新宿で見てきました。
(1)呉美保監督の前作『そこのみにて光輝く』が大層いい出来栄えだったので、本作もどうかと思って映画館に出向きました。
本作(注1)の冒頭は、仏壇にお茶を供える老女・あきこ(喜多道枝)の姿。
「皆で飲みましょうね」と言いながら、鈴を叩きます。
次いで、居間のちゃぶ台で自身がお茶を飲みながら外を見ると、桜の花びらが舞い落ちてきます。
呼び鈴がなるので玄関にあきこが出ると、そこに若い男(岡野:高良健吾)が立っていて、「申し訳ありませんでした。私、桜ヶ丘小学校の岡野と申します。うちの児童が、このあたりの呼び鈴を鳴らして回っていたようで」と言います。
あきこは「いいんですよ」と答えながら、「さっきも、家の中に学校の桜の花びらが入ってきました」と言います。
家の外に出てきた岡野に対して、他の先生が「ここのおばあちゃん、ボケているでしょう?」と尋ね、岡野が「学校の桜が入ってきたと言っていた」と応じると、その先生は「もう6月なのにね」と言います。
その後、外で歩道を掃除しているあきこに対して、小学生の弘也(加部亜門)が「こんにちは、さようなら」と言って走り去ってから、タイトルクレジット。
次いで場面は、マンションの一室。
若い母親の雅美(尾野真千子)が、娘のあやねに服を着せています。
着方が悪いのを見て、雅美は「どこを通しているの!」と怒り、あやねの頭に手を。
ここまでで、本作に登場する主要な人物が3人描かれますが、さあ、彼らを中心にしてこれから物語はどのように展開するのでしょうか、………?
本作では、小学4年生のクラスを受け持つ青年と、娘を厳しく躾けようとして手を上げてしまう若い母親、それにボケの傾向がうかがわれる独り暮らしの老女を巡る3つの物語が描かれます。各話はどれも大層感動的であり、さらに、それぞれ単発のものとして展開しているように見えながらも、まとまりのある一つの映画となっているなと観客に思わせる、なんとも興味深い作品となっています(注2)。
(2)下記の(3)で触れる映画評論家の小梶勝男氏は、本作について、「小さな娘を延々とたたき続ける母親。暴れ回る子供たちの中でぼう然とする小学校教師。………それらは場面ごとの力はあっても、一つのドラマを織りなすには至らない。地域社会で起こる様々な問題のカタログを見ているように思えてしまった」と述べています。
確かに、本作は、3つの物語がバラバラに描かれているような感じもするところです。
ですが、そうでありながらも、実際には、子供を通じて大人が変化していく様子が共通して描かれており、なおかつ希薄ではありますが登場人物相互になんらかの関係があるようにも設定されていて(注3)、全体的に緊密な一つの物語を形成しているように思えてくるのです。
例えば、ボケの症状が出てきているあきこは、両親と弟の位牌が並ぶ仏壇に話しかけることしかしない実にわびしい生活を送ってきたところ、自閉症の小学生・弘也と親しく交流することによって、「私、とっても幸せよ」と言うまでになります。
そのあきこは、上で見たように小学校教師の岡野と面識がありますし、岡野の同僚の大宮(高橋和也)は、弘也が入っている特別支援学級の「ひまわり組」を担当しているようなのです(注4)。
こんなことから、あきこを基点にして、本作の登場人物に希薄ながらもつながりが見えてくる感じがします。
また、大宮の妻・陽子(池脇千鶴)は、同じ団地に住む雅美と仲がいいのです。
そして、雅美が自分の娘・あやねとの関係で悩むのは(注5)、岡野が担任の4年2組の児童との関係に悩むのと無関係ではないように思えてきます。
もっと言えば、一方で、陽子は、雅美が抱える悩みの原点を言い当てて、その立ち直りを助けますし、他方で、「ひまわり組のお楽しみ会」での大宮らの活躍ぶりを見て、岡野は、クラスの問題児の家に向かおうと決意します。
こう見てくると、大宮夫婦が本作の基点になっているようにも思われます。
さらには、劇場用パンフレット掲載のエッセイ「「抱きしめられてくること」という宿題」において筆者の川本三郎氏が述べるように、「この映画には、何度か、抱きしめる場面があり、それが観客の心を和らげ」ますが、そういう観点からしたら、「家族に抱きしめられてくること」という宿題を児童たちに出した岡野こそがやはり基点とも言えるでしょう(注6)。
そして、その宿題を「絶対にやってきます」と言いながらも翌日登校しなかった児童の家に向かって全速力で走るラストの岡野の姿は、ものすごく感動的です。
本作は、それぞれ独立しているようにみえる3つの物語から構成されているとはいえ、そのことによってかえって繋がりのある一つの物語を描き出しているように感じました。
(3)渡まち子氏は、「いろいろと問題がある現代社会だが、希望は確かにあるのだと信じられる秀作。特別な事件は起こらない小さな物語でも、こんなにも人の心を動かす作品が生まれることに感激した」として85点をつけています。
中条省平氏は、「学級崩壊に直面した岡野が「家族に抱きしめられてくること」という宿題を出し、生徒がそれに応える場面で、この映画は最良のドキュメンタリー的側面を見せる。堅実な演出のなかですかさずこうした即興的才能を発揮するところに呉監督の大器ぶりが窺える」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。
小梶勝男氏は、「最後の最後、見事に映画を感じさせる瞬間が訪れる。並列して描かれていた話のイメージが一つに重なっていき、その中を、小学校教師が、走る、走る。生き生きと動き出した映画に目を見張ったが、すぐにエンドクレジットになってしまった」と述べています。
(注1)監督は、『そこのみにて光輝く』や『オカンの嫁入り』、『酒井家のしあわせ』(DVDで見ました)の呉美保。
脚本は、『そこのみにて光輝く』や『さよなら渓谷』、『婚前特急』などの高田亮。
また、原作は中脇初枝著『きみはいい子』(ポプラ文庫)。同書は5つの短編から構成されていますが、本作は、その中から、「サンタさんの来ない家」、「べっぴんさん」、及び「こんにちは、さようなら」の3作を取り上げています。
ちなみに、本作のロケ地は小樽。
(注2)出演者の内、高良健吾は『悼む人』、尾野真千子は『ソロモンの偽証』、池脇千鶴と高橋和也は『そこのみにて光輝く』、富田靖子は『もらとりあむタマ子』で、それぞれ見ました。
(注3)こうした関係は、原作では書き込まれておりません。
(注4)あきこは、学校の教室で開かれた「ひまわり組のお楽しみ会」に、弘也の母親(富田靖子)と一緒に出席して、弘也が歌を歌うのを聞いたりします〔弘也は、ベートーヴェン作曲の「歓喜の歌」(第9交響曲第4楽章)のメロディーに乗せて、呉美保作詞の歌を歌います〕。さらにその教室で、あきこは大宮を見ています。
(注5)夫が単身赴任中で、雅美は一人であやねを育てていますが、躾が厳しく、あやねが自分の意に沿わないことをすると何度も何度も手を上げてしまいます。
(注6)弘也を迎えに来た母親が何度も謝るのに対し、あきこはその母親の背中を抱くように撫でますし、また陽子は「べっぴんさんだよ」と言って雅美の背中を撫でて抱きしめます。
★★★★☆☆
象のロケット:きみはいい子
(1)呉美保監督の前作『そこのみにて光輝く』が大層いい出来栄えだったので、本作もどうかと思って映画館に出向きました。
本作(注1)の冒頭は、仏壇にお茶を供える老女・あきこ(喜多道枝)の姿。
「皆で飲みましょうね」と言いながら、鈴を叩きます。
次いで、居間のちゃぶ台で自身がお茶を飲みながら外を見ると、桜の花びらが舞い落ちてきます。
呼び鈴がなるので玄関にあきこが出ると、そこに若い男(岡野:高良健吾)が立っていて、「申し訳ありませんでした。私、桜ヶ丘小学校の岡野と申します。うちの児童が、このあたりの呼び鈴を鳴らして回っていたようで」と言います。
あきこは「いいんですよ」と答えながら、「さっきも、家の中に学校の桜の花びらが入ってきました」と言います。
家の外に出てきた岡野に対して、他の先生が「ここのおばあちゃん、ボケているでしょう?」と尋ね、岡野が「学校の桜が入ってきたと言っていた」と応じると、その先生は「もう6月なのにね」と言います。
その後、外で歩道を掃除しているあきこに対して、小学生の弘也(加部亜門)が「こんにちは、さようなら」と言って走り去ってから、タイトルクレジット。
次いで場面は、マンションの一室。
若い母親の雅美(尾野真千子)が、娘のあやねに服を着せています。
着方が悪いのを見て、雅美は「どこを通しているの!」と怒り、あやねの頭に手を。
ここまでで、本作に登場する主要な人物が3人描かれますが、さあ、彼らを中心にしてこれから物語はどのように展開するのでしょうか、………?
本作では、小学4年生のクラスを受け持つ青年と、娘を厳しく躾けようとして手を上げてしまう若い母親、それにボケの傾向がうかがわれる独り暮らしの老女を巡る3つの物語が描かれます。各話はどれも大層感動的であり、さらに、それぞれ単発のものとして展開しているように見えながらも、まとまりのある一つの映画となっているなと観客に思わせる、なんとも興味深い作品となっています(注2)。
(2)下記の(3)で触れる映画評論家の小梶勝男氏は、本作について、「小さな娘を延々とたたき続ける母親。暴れ回る子供たちの中でぼう然とする小学校教師。………それらは場面ごとの力はあっても、一つのドラマを織りなすには至らない。地域社会で起こる様々な問題のカタログを見ているように思えてしまった」と述べています。
確かに、本作は、3つの物語がバラバラに描かれているような感じもするところです。
ですが、そうでありながらも、実際には、子供を通じて大人が変化していく様子が共通して描かれており、なおかつ希薄ではありますが登場人物相互になんらかの関係があるようにも設定されていて(注3)、全体的に緊密な一つの物語を形成しているように思えてくるのです。
例えば、ボケの症状が出てきているあきこは、両親と弟の位牌が並ぶ仏壇に話しかけることしかしない実にわびしい生活を送ってきたところ、自閉症の小学生・弘也と親しく交流することによって、「私、とっても幸せよ」と言うまでになります。
そのあきこは、上で見たように小学校教師の岡野と面識がありますし、岡野の同僚の大宮(高橋和也)は、弘也が入っている特別支援学級の「ひまわり組」を担当しているようなのです(注4)。
こんなことから、あきこを基点にして、本作の登場人物に希薄ながらもつながりが見えてくる感じがします。
また、大宮の妻・陽子(池脇千鶴)は、同じ団地に住む雅美と仲がいいのです。
そして、雅美が自分の娘・あやねとの関係で悩むのは(注5)、岡野が担任の4年2組の児童との関係に悩むのと無関係ではないように思えてきます。
もっと言えば、一方で、陽子は、雅美が抱える悩みの原点を言い当てて、その立ち直りを助けますし、他方で、「ひまわり組のお楽しみ会」での大宮らの活躍ぶりを見て、岡野は、クラスの問題児の家に向かおうと決意します。
こう見てくると、大宮夫婦が本作の基点になっているようにも思われます。
さらには、劇場用パンフレット掲載のエッセイ「「抱きしめられてくること」という宿題」において筆者の川本三郎氏が述べるように、「この映画には、何度か、抱きしめる場面があり、それが観客の心を和らげ」ますが、そういう観点からしたら、「家族に抱きしめられてくること」という宿題を児童たちに出した岡野こそがやはり基点とも言えるでしょう(注6)。
そして、その宿題を「絶対にやってきます」と言いながらも翌日登校しなかった児童の家に向かって全速力で走るラストの岡野の姿は、ものすごく感動的です。
本作は、それぞれ独立しているようにみえる3つの物語から構成されているとはいえ、そのことによってかえって繋がりのある一つの物語を描き出しているように感じました。
(3)渡まち子氏は、「いろいろと問題がある現代社会だが、希望は確かにあるのだと信じられる秀作。特別な事件は起こらない小さな物語でも、こんなにも人の心を動かす作品が生まれることに感激した」として85点をつけています。
中条省平氏は、「学級崩壊に直面した岡野が「家族に抱きしめられてくること」という宿題を出し、生徒がそれに応える場面で、この映画は最良のドキュメンタリー的側面を見せる。堅実な演出のなかですかさずこうした即興的才能を発揮するところに呉監督の大器ぶりが窺える」として★4つ(「見逃せない」)をつけています。
小梶勝男氏は、「最後の最後、見事に映画を感じさせる瞬間が訪れる。並列して描かれていた話のイメージが一つに重なっていき、その中を、小学校教師が、走る、走る。生き生きと動き出した映画に目を見張ったが、すぐにエンドクレジットになってしまった」と述べています。
(注1)監督は、『そこのみにて光輝く』や『オカンの嫁入り』、『酒井家のしあわせ』(DVDで見ました)の呉美保。
脚本は、『そこのみにて光輝く』や『さよなら渓谷』、『婚前特急』などの高田亮。
また、原作は中脇初枝著『きみはいい子』(ポプラ文庫)。同書は5つの短編から構成されていますが、本作は、その中から、「サンタさんの来ない家」、「べっぴんさん」、及び「こんにちは、さようなら」の3作を取り上げています。
ちなみに、本作のロケ地は小樽。
(注2)出演者の内、高良健吾は『悼む人』、尾野真千子は『ソロモンの偽証』、池脇千鶴と高橋和也は『そこのみにて光輝く』、富田靖子は『もらとりあむタマ子』で、それぞれ見ました。
(注3)こうした関係は、原作では書き込まれておりません。
(注4)あきこは、学校の教室で開かれた「ひまわり組のお楽しみ会」に、弘也の母親(富田靖子)と一緒に出席して、弘也が歌を歌うのを聞いたりします〔弘也は、ベートーヴェン作曲の「歓喜の歌」(第9交響曲第4楽章)のメロディーに乗せて、呉美保作詞の歌を歌います〕。さらにその教室で、あきこは大宮を見ています。
(注5)夫が単身赴任中で、雅美は一人であやねを育てていますが、躾が厳しく、あやねが自分の意に沿わないことをすると何度も何度も手を上げてしまいます。
(注6)弘也を迎えに来た母親が何度も謝るのに対し、あきこはその母親の背中を抱くように撫でますし、また陽子は「べっぴんさんだよ」と言って雅美の背中を撫でて抱きしめます。
★★★★☆☆
象のロケット:きみはいい子
家庭内暴力、学級崩壊、痴呆老人の物語を並べながら一つのテーマが見れずに残念、という要旨を書いてる人がいて、なるほど、この人の中では全ての物語が関連し、全ての問題が解決するような形にしないと高評価にならないのだろうと類推しました。
基本、あまりまとまりのある話ではないし、全部が最後に繋がってビックリって映画でもなかったのですが、根底で言いたい事は、一人一人が一つ一つの問題に向きあっていく事から思わぬ活路が見つかる、みたいな事ではないかと思いました。
映画の中では全く語られないですが、実はこの映画の悩みって核家族が中心になる社会で起こりうる問題で、町中がサザエさんのように三世代集まって生活していたら起きないんじゃないでしょうか(家父長に少し権限を与える必要はありますが)
ラストのシーンを見ると、3つの独立した話が一つの映画として構成されている点に凄く納得してしまい、それはどうしてなんだろう、3つの話をつなげているのはなんだろう、と考えてしまいます。そして、そうやって考えること自体がおもしろいなと思った次第です。
その回答として、クマネズミは取り敢えず、「子供を通じて大人が変化していく様子が共通して描かれて」いるのではとしましたが、「ふじき78」さんのように、「一人一人が一つ一つの問題に向きあっていく事から思わぬ活路が見つかる」こととされるのもずいぶんと興味深いことですし、またブログ「お楽しみはココからだ」の「Kei」さんのように、「“コミュニケーションの不全”という問題に、どういう解決点を見出して行くか…という事」とされるのも大層面白いなと思います。
なお、「この映画の悩み」は、「町中がサザエさんのように三世代集まって生活していたら起きないんじゃないか」という点に関しては、少なくともあきこの問題(あるいは雅美の問題)は起きないのかもしれません。でも、イエ制度が崩れてしまい、核家族化が進展してしまった現在、一般的には、望むべくもないような気がします。