『森のカフェ』を渋谷のヒューマントラストシネマで見てきました。
(1)若い哲学研究者が主人公の映画だと聞き面白そうだなと思い、映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭は、タイトルが映し出された後、主人公の哲学研究者・松岡(管勇毅)のモノローグ。
「近所が騒がしいので引っ越した。この新しい家の周囲は緑が多く、時々こだまが窓から流れてくる気配がする。けれど、論文が書けないのは相変わらず。医者に根を詰めるなと言われているものの、寝ているわけにはいかない。とはいえ、こうも書けないのでは、のんびりしているのと同じ。気晴らしに出かけることにした」。
次いで、「哲学者と妖精、そしてコーヒー」という字幕が映し出されます(注2)。
松岡は、机の上のパソコンをたたんで、家を出て、付近の公園を散歩します。
「陽の光が恋しかった。ここ数日、家に閉じこもっていたから」とのモノローグ。
しばらく歩くと、木々の間に椅子とテーブルが設けられているところに出ます。
松岡は「この場所が好きだ」と言いながら、椅子に腰を掛け、分厚いノートと万年筆をかばんから取り出してテーブルに並べます。
ですが、「こうしても書けないことに変わりはない。今日はよしとしよう」とつぶやくと、画面の焦点がぼやけてきます。
すると突然、若い女性(若井久美子)が現れ、「いらっしゃいませ。森のカフェにようこそ。何になさいますか?」と尋ねるのです。
松岡は「わけが分かんない。とにかく今は忙しい」と答えるのですが、その女性は「だからといって、無銭飲食していいことにはなりません。いまから注文してください」と言います。
松岡は「いつからここがカフェに?メニューは?」といぶかしがると、彼女は「本日オープンしたばかりですから、メニューはありません」と答え、松岡が「じゃあキャラメル・マキアートを」と注文すると、彼女は、ポットに入ったコーヒーをカップに注いで、「森のカフェのオリジナルブレンドです」といって差し出します。
松岡は、「勝手なカフェだな」といいながらもそのコーヒーを飲みますが、次第に眠くなって寝てしまいます。
しばらくして目を覚ますと、彼女もコーヒーも消えています。松岡は「森の妖精にからかわれたのか」とつぶやきます。
さあ、彼女は一体何者なのでしょうか、………?
本作は、若い哲学研究者が論文作成に悩んでいる時に、郊外の森で出会った妖精かと見紛う女子大生が歌う歌を耳にして、論文を無事に仕上げることが出来、また女子大生の方もその歌の歌詞の続きを書けた、といったストーリーです。主人公の専攻する哲学方面の議論がなされたりするとはいえ、むしろ本作は、ヒロインが歌う歌と、東京の西部にある森林の素晴らしい光景とが主役の作品ではないかと思いました。
(2)本作で強く印象に残ったのは、主人公の松岡が散歩をする木々の鬱蒼と茂る公園の光景です(注3)。こんなにもたくさんの樹木がある公園が住まいの直ぐソバにあり、サンダルでも履いて出かけて行き、森の中に置かれている椅子に座って静かに読書でもできたらどんなに心が落ち着くことか、と溜息が出てしまいます。
そして、そんな森の中なら、若井久美子が扮する妖精が登場するのも十分あり得ることだと思えてしまいます。
まして、ギター伴奏であんなに綺麗な歌声を聞かせてもらったら(注4)!
でも、問題点もあるでしょう。
主人公の松岡は、大学院の博士課程にいて、大学で哲学を教える熊谷教授(永井秀樹)の指導のもとで博士論文の作成にいそしんでいる最中ではないかと推測されます。
ただ、映像を見ていると、熊谷教授の「哲学」の講義の出席しているのは女子学生ばかりの感じがします(注5)。
全体の印象からしても、松岡が通っている大学は女子大のように見えるのですが、仮にそうだとしたら、そうした大学の大学院にどうして男性の松岡が所属しているのか、よくわかりませんでした。
そんなつまらないことはさておき、松岡が博士論文として取り組んでいるテーマは、デカルトが打ち立てた「心身二元論」の克服というような問題のように思われます(注6)。
ただそれは、これまで大哲学者が総力を上げて取り組んでもなかなか解けなかった難問ですから、松岡が書きあぐねてしまうのも無理はありません。
そうしたところに、若井久美子が扮する妖精が出現して、「風のにおいと ぼくらがいることの謎は 誰にもとけやしないさ」、「いつのまにか 言葉が なにかを見えなくしている」などと歌い、挙句、「あなたの心は壊れていない。無い物が見えるのじゃなく、他の人が見えていない物が見えるだけ。あなたが誰かを見ているとしたら、誰かがあなたに会いに来ているということ。見えている限りその人はいる」とまで忠告するのです。
この忠告に触発されて、松岡は論文作成に拍車がかかります。
ただ、論文の審査会では、清水教授(志賀廣太郎)が、「君は、物と知覚は同一である、見えることは在ることだ、と言いたいわけだ」とまとめ、「じゃあ、幽霊はどうなる、ハムレットは父親の幽霊を見たが、それは在るのか無いのか?」と質問すると、松岡は、「私の説からは、他の物と同じように存在します。ただ、存在の仕方がいささか変わっているだけのことです。コーヒーもペンも、自然科学の真実によって存在するのではなく、生きることの中で存在するのです」と答えます(注7)。
哲学に素人のクマネズミにはなかなか議論に付いて行くのが難しいところですが、よくわからないのは、例えば、若井久美子の妖精は松岡にとってどのような位置づけにあるのかという点です(注8)。
あるいは松岡は、自分が森でうたた寝をしていた間に見た夢の中の出来事にすぎないと思っているのかもしれません。ただ、松岡はそのことを友人の悟(橋本一郎)に話しているようですから(注9)、単なる夢・幻とは思っていないフシがあります。
または、松岡が彼女を妖精だと考えているとしたら、そして自分の説に従って妖精として存在する者だとみなしているとしたら、友人の悟とどう違うのでしょうか?悟の意見は煩いと言って撥ね付けるのに対して(注10)、どうして彼女の意見の方は受け入れようとするのでしょうか?
そうではなくて、常識的に松岡が、彼女は実在の人間(付近の女子大生)だとわかっていながら(注11)、ふざけて妖精のように取り扱っているだけだとも考えられます。ただ、そうだとしたら、悟とはどこがどう違うからそう考えるのでしょうか?
ここで問題となりそうな事柄は、清水教授が言うような「幽霊が存在すると信じるか、否か」といった二者択一で片付くものではないのではないか、「在る」(あるいは、「実在する」)といった言葉の意味合いなどについて、もっと多方面から検討した上で判断する必要があるのではないか、という気がします(注12)。
とはいえ、本作は「哲学的コメディ」とされているのですから(注13)、そんな難しそうな問題は脇にどけておき(少なくとも、クマネズミには手に余ります!)、綺麗な森のなかでの松岡と妖精との戯れを愉しめば良いのではないかと思います(注14)。
(3)フリーライターの遠藤政樹氏は、「おしゃれで楽しく、そしてちょっとシニカルでビターな味わいが楽しめる。リズムや長さも心地よく、劇中歌が思いのほかクセになる」と述べています。
(注1)監督・脚本は榎本憲男。
(注2)本作は、この他、「もう一つのカフェ」とか「So What?」など幾つかの章に区切られています。
(注3)この景色については、榎本監督が初日舞台挨拶で、「東京のずっと西の方」「シブリっぽいところ」「『耳をすませば』のモデルになっているところ」と述べています。
ネットで調べてみると、こうした記事から、京王線の「聖蹟桜ヶ丘」駅を起点とする一帯であることが分かります。
でも、アニメ『耳をすませば』(この拙エントリの「注1」で若干ながら触れています)では、少女があまり森のなかに入っていかないので、ネット掲載の画像でも森のなかの様子がよくわかりません。一度現地を探検してみる必要がありそうです。
(注4)何しろ、若井久美子は音大出身で、東宝ミュージカル『レ・ミゼラブル』(2015年)でコゼット役を演じているのですから。
なお、彼女が本作で歌う歌「いつのまにかぼくらは」の歌詞は、公式サイトの「music」に掲載されています。
(注5)少なくとも、テストに合格せず補講を受けるのは女子学生だけだと思います。
(注6)病気で入院した熊谷教授に代わって補講をする松岡が選んだテーマが「心身二元論」であり、彼は、「それは、物の世界を力学的に説明し、生き物を死んだ物として扱う世界観だ」などと話し出します。
(注7)松岡が主張しているのは、劇場用パンフレットに掲載されている榎本監督のエッセイ「哲学について私が知っている二三の事柄」に従えば、「知覚の因果説」に対する批判というように思われます。
あるいは、「実在論」に対する「現象主義」ということになるのかもしれません。
そしてここまでくると、映画『幻肢』(この拙エントリをご覧ください)で取り扱われたラマチャンドランの説などに話は接近してきます〔なにしろ、その映画では、「幻肢」によって「幽霊」を説明する論文を作成する研究者が登場するのです(ただ、こうした説明方法では、「知覚の因果説」によることになるかもしれませんが)〕!
更に進めば、この拙エントリで取り上げましたメルロ=ポンティの「知覚の現象学」にもアプローチできるかもしれません!
といいましても、クマネズミは哲学には全くの素人、これ以上深入りすることは出来ません。
(注8)他にも考えられる問題としては、例えば、森のカフェで松岡と若い女性がツーショットで映し出される場面がありますが、これは誰のどのような視点からのものと考えればいいのでしょうか?通常の映画の場合は、“神”の視点ということでお約束事として扱われますが、本作のような“哲学的”なテーマを取り扱っている場合には、一度検討してみてもいいのかもしれません(むしろ、松岡と悟のツーショットの方を問題とすべきかもしれませんが)。
(注9)友人の悟から、「そんなわけないだろう。そもそも、そんなメルヘンチックなこと言っている場合なのか?」と叱責されてしまいます。
(注10)悟の方は、すでに論文を仕上げているようです(松岡における悟の位置づけから、このことが意味するのは、現在の哲学界の空気を読んだ上で書かれる論文なら既に作成済みだ、ということでしょうか)。
(注11)松岡は、その女性に対して、「幻覚が酷い」と打ち明け、彼女が「お酒?」と尋ねると、彼は「頭がおかしい」と答えます。ただ、こんなことは、彼女を悟と同じ“幻覚”だとみなしているのなら、松岡は言わないでしょう(なお、その女性は、映画の中では、森野洋子という名の女子大生ともされています)!
(注12)さらに言えば、妖精まがいの女性は、松岡に対して、松岡が医者から処方してもらっている薬を飲まないように勧めますが、統合失調症による幻覚は、はたして清水教授の言う「幽霊」と同じように取り扱えるものでしょうか?
そもそも、統合失調症による幻覚症状が現れた場合、患者は、それが存在するものだとして付き合っていけばそれでかまわないのでしょうか?医者が処方する薬を飲むことによって幻覚症状が収まってしまう患者も多いのではないでしょうか(だからこそ処方されるのではないでしょうか)?そして、薬によって消えてしまう“幻覚”ならば、果たして「実在する」ものだといえるのでしょうか?
〔追記:上野昴志氏は、ここに掲載されている記事の中で、「論文審査の場で、志賀廣太郎の教授が、かつて東大総長についた某映画評論家そっくりの演技を披露する」と述べていますが、そういえばまさのその通りでした!〕
(注13)劇場用パンフレットの「Introduction」の冒頭に記載されています。
また、公式サイトの「introduction」にも、「まずは楽しく笑って見ていただき」と述べられています。
(注14)なにしろ、松岡と悟との関係の合わせ鏡のように洋子(若井久美子)には友人の由美(伊波麻央)がいるのですから!
★★★☆☆☆
(1)若い哲学研究者が主人公の映画だと聞き面白そうだなと思い、映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭は、タイトルが映し出された後、主人公の哲学研究者・松岡(管勇毅)のモノローグ。
「近所が騒がしいので引っ越した。この新しい家の周囲は緑が多く、時々こだまが窓から流れてくる気配がする。けれど、論文が書けないのは相変わらず。医者に根を詰めるなと言われているものの、寝ているわけにはいかない。とはいえ、こうも書けないのでは、のんびりしているのと同じ。気晴らしに出かけることにした」。
次いで、「哲学者と妖精、そしてコーヒー」という字幕が映し出されます(注2)。
松岡は、机の上のパソコンをたたんで、家を出て、付近の公園を散歩します。
「陽の光が恋しかった。ここ数日、家に閉じこもっていたから」とのモノローグ。
しばらく歩くと、木々の間に椅子とテーブルが設けられているところに出ます。
松岡は「この場所が好きだ」と言いながら、椅子に腰を掛け、分厚いノートと万年筆をかばんから取り出してテーブルに並べます。
ですが、「こうしても書けないことに変わりはない。今日はよしとしよう」とつぶやくと、画面の焦点がぼやけてきます。
すると突然、若い女性(若井久美子)が現れ、「いらっしゃいませ。森のカフェにようこそ。何になさいますか?」と尋ねるのです。
松岡は「わけが分かんない。とにかく今は忙しい」と答えるのですが、その女性は「だからといって、無銭飲食していいことにはなりません。いまから注文してください」と言います。
松岡は「いつからここがカフェに?メニューは?」といぶかしがると、彼女は「本日オープンしたばかりですから、メニューはありません」と答え、松岡が「じゃあキャラメル・マキアートを」と注文すると、彼女は、ポットに入ったコーヒーをカップに注いで、「森のカフェのオリジナルブレンドです」といって差し出します。
松岡は、「勝手なカフェだな」といいながらもそのコーヒーを飲みますが、次第に眠くなって寝てしまいます。
しばらくして目を覚ますと、彼女もコーヒーも消えています。松岡は「森の妖精にからかわれたのか」とつぶやきます。
さあ、彼女は一体何者なのでしょうか、………?
本作は、若い哲学研究者が論文作成に悩んでいる時に、郊外の森で出会った妖精かと見紛う女子大生が歌う歌を耳にして、論文を無事に仕上げることが出来、また女子大生の方もその歌の歌詞の続きを書けた、といったストーリーです。主人公の専攻する哲学方面の議論がなされたりするとはいえ、むしろ本作は、ヒロインが歌う歌と、東京の西部にある森林の素晴らしい光景とが主役の作品ではないかと思いました。
(2)本作で強く印象に残ったのは、主人公の松岡が散歩をする木々の鬱蒼と茂る公園の光景です(注3)。こんなにもたくさんの樹木がある公園が住まいの直ぐソバにあり、サンダルでも履いて出かけて行き、森の中に置かれている椅子に座って静かに読書でもできたらどんなに心が落ち着くことか、と溜息が出てしまいます。
そして、そんな森の中なら、若井久美子が扮する妖精が登場するのも十分あり得ることだと思えてしまいます。
まして、ギター伴奏であんなに綺麗な歌声を聞かせてもらったら(注4)!
でも、問題点もあるでしょう。
主人公の松岡は、大学院の博士課程にいて、大学で哲学を教える熊谷教授(永井秀樹)の指導のもとで博士論文の作成にいそしんでいる最中ではないかと推測されます。
ただ、映像を見ていると、熊谷教授の「哲学」の講義の出席しているのは女子学生ばかりの感じがします(注5)。
全体の印象からしても、松岡が通っている大学は女子大のように見えるのですが、仮にそうだとしたら、そうした大学の大学院にどうして男性の松岡が所属しているのか、よくわかりませんでした。
そんなつまらないことはさておき、松岡が博士論文として取り組んでいるテーマは、デカルトが打ち立てた「心身二元論」の克服というような問題のように思われます(注6)。
ただそれは、これまで大哲学者が総力を上げて取り組んでもなかなか解けなかった難問ですから、松岡が書きあぐねてしまうのも無理はありません。
そうしたところに、若井久美子が扮する妖精が出現して、「風のにおいと ぼくらがいることの謎は 誰にもとけやしないさ」、「いつのまにか 言葉が なにかを見えなくしている」などと歌い、挙句、「あなたの心は壊れていない。無い物が見えるのじゃなく、他の人が見えていない物が見えるだけ。あなたが誰かを見ているとしたら、誰かがあなたに会いに来ているということ。見えている限りその人はいる」とまで忠告するのです。
この忠告に触発されて、松岡は論文作成に拍車がかかります。
ただ、論文の審査会では、清水教授(志賀廣太郎)が、「君は、物と知覚は同一である、見えることは在ることだ、と言いたいわけだ」とまとめ、「じゃあ、幽霊はどうなる、ハムレットは父親の幽霊を見たが、それは在るのか無いのか?」と質問すると、松岡は、「私の説からは、他の物と同じように存在します。ただ、存在の仕方がいささか変わっているだけのことです。コーヒーもペンも、自然科学の真実によって存在するのではなく、生きることの中で存在するのです」と答えます(注7)。
哲学に素人のクマネズミにはなかなか議論に付いて行くのが難しいところですが、よくわからないのは、例えば、若井久美子の妖精は松岡にとってどのような位置づけにあるのかという点です(注8)。
あるいは松岡は、自分が森でうたた寝をしていた間に見た夢の中の出来事にすぎないと思っているのかもしれません。ただ、松岡はそのことを友人の悟(橋本一郎)に話しているようですから(注9)、単なる夢・幻とは思っていないフシがあります。
または、松岡が彼女を妖精だと考えているとしたら、そして自分の説に従って妖精として存在する者だとみなしているとしたら、友人の悟とどう違うのでしょうか?悟の意見は煩いと言って撥ね付けるのに対して(注10)、どうして彼女の意見の方は受け入れようとするのでしょうか?
そうではなくて、常識的に松岡が、彼女は実在の人間(付近の女子大生)だとわかっていながら(注11)、ふざけて妖精のように取り扱っているだけだとも考えられます。ただ、そうだとしたら、悟とはどこがどう違うからそう考えるのでしょうか?
ここで問題となりそうな事柄は、清水教授が言うような「幽霊が存在すると信じるか、否か」といった二者択一で片付くものではないのではないか、「在る」(あるいは、「実在する」)といった言葉の意味合いなどについて、もっと多方面から検討した上で判断する必要があるのではないか、という気がします(注12)。
とはいえ、本作は「哲学的コメディ」とされているのですから(注13)、そんな難しそうな問題は脇にどけておき(少なくとも、クマネズミには手に余ります!)、綺麗な森のなかでの松岡と妖精との戯れを愉しめば良いのではないかと思います(注14)。
(3)フリーライターの遠藤政樹氏は、「おしゃれで楽しく、そしてちょっとシニカルでビターな味わいが楽しめる。リズムや長さも心地よく、劇中歌が思いのほかクセになる」と述べています。
(注1)監督・脚本は榎本憲男。
(注2)本作は、この他、「もう一つのカフェ」とか「So What?」など幾つかの章に区切られています。
(注3)この景色については、榎本監督が初日舞台挨拶で、「東京のずっと西の方」「シブリっぽいところ」「『耳をすませば』のモデルになっているところ」と述べています。
ネットで調べてみると、こうした記事から、京王線の「聖蹟桜ヶ丘」駅を起点とする一帯であることが分かります。
でも、アニメ『耳をすませば』(この拙エントリの「注1」で若干ながら触れています)では、少女があまり森のなかに入っていかないので、ネット掲載の画像でも森のなかの様子がよくわかりません。一度現地を探検してみる必要がありそうです。
(注4)何しろ、若井久美子は音大出身で、東宝ミュージカル『レ・ミゼラブル』(2015年)でコゼット役を演じているのですから。
なお、彼女が本作で歌う歌「いつのまにかぼくらは」の歌詞は、公式サイトの「music」に掲載されています。
(注5)少なくとも、テストに合格せず補講を受けるのは女子学生だけだと思います。
(注6)病気で入院した熊谷教授に代わって補講をする松岡が選んだテーマが「心身二元論」であり、彼は、「それは、物の世界を力学的に説明し、生き物を死んだ物として扱う世界観だ」などと話し出します。
(注7)松岡が主張しているのは、劇場用パンフレットに掲載されている榎本監督のエッセイ「哲学について私が知っている二三の事柄」に従えば、「知覚の因果説」に対する批判というように思われます。
あるいは、「実在論」に対する「現象主義」ということになるのかもしれません。
そしてここまでくると、映画『幻肢』(この拙エントリをご覧ください)で取り扱われたラマチャンドランの説などに話は接近してきます〔なにしろ、その映画では、「幻肢」によって「幽霊」を説明する論文を作成する研究者が登場するのです(ただ、こうした説明方法では、「知覚の因果説」によることになるかもしれませんが)〕!
更に進めば、この拙エントリで取り上げましたメルロ=ポンティの「知覚の現象学」にもアプローチできるかもしれません!
といいましても、クマネズミは哲学には全くの素人、これ以上深入りすることは出来ません。
(注8)他にも考えられる問題としては、例えば、森のカフェで松岡と若い女性がツーショットで映し出される場面がありますが、これは誰のどのような視点からのものと考えればいいのでしょうか?通常の映画の場合は、“神”の視点ということでお約束事として扱われますが、本作のような“哲学的”なテーマを取り扱っている場合には、一度検討してみてもいいのかもしれません(むしろ、松岡と悟のツーショットの方を問題とすべきかもしれませんが)。
(注9)友人の悟から、「そんなわけないだろう。そもそも、そんなメルヘンチックなこと言っている場合なのか?」と叱責されてしまいます。
(注10)悟の方は、すでに論文を仕上げているようです(松岡における悟の位置づけから、このことが意味するのは、現在の哲学界の空気を読んだ上で書かれる論文なら既に作成済みだ、ということでしょうか)。
(注11)松岡は、その女性に対して、「幻覚が酷い」と打ち明け、彼女が「お酒?」と尋ねると、彼は「頭がおかしい」と答えます。ただ、こんなことは、彼女を悟と同じ“幻覚”だとみなしているのなら、松岡は言わないでしょう(なお、その女性は、映画の中では、森野洋子という名の女子大生ともされています)!
(注12)さらに言えば、妖精まがいの女性は、松岡に対して、松岡が医者から処方してもらっている薬を飲まないように勧めますが、統合失調症による幻覚は、はたして清水教授の言う「幽霊」と同じように取り扱えるものでしょうか?
そもそも、統合失調症による幻覚症状が現れた場合、患者は、それが存在するものだとして付き合っていけばそれでかまわないのでしょうか?医者が処方する薬を飲むことによって幻覚症状が収まってしまう患者も多いのではないでしょうか(だからこそ処方されるのではないでしょうか)?そして、薬によって消えてしまう“幻覚”ならば、果たして「実在する」ものだといえるのでしょうか?
〔追記:上野昴志氏は、ここに掲載されている記事の中で、「論文審査の場で、志賀廣太郎の教授が、かつて東大総長についた某映画評論家そっくりの演技を披露する」と述べていますが、そういえばまさのその通りでした!〕
(注13)劇場用パンフレットの「Introduction」の冒頭に記載されています。
また、公式サイトの「introduction」にも、「まずは楽しく笑って見ていただき」と述べられています。
(注14)なにしろ、松岡と悟との関係の合わせ鏡のように洋子(若井久美子)には友人の由美(伊波麻央)がいるのですから!
★★★☆☆☆
おっと、失礼しました。思わず自慢のノドを披露してしまいましたね。
という冗談は仏のようなクマネズミさんだから言えることであってw
いやはや、素晴らしい!クマネズミさんの記憶力に恐れ入ってしまいました。
まさか、脚本がお手元にあるのではないですか?
…と焦ってしまうぐらい、正確にいろいろ覚えてらっしゃる!
心身二元論、実はアンジェリカにもそれらしい死生観が出ていました。
巨匠が最後に作った映画がこのようなものだったなんて、そしてそれが榎本監督の作った作品に似ていたなんて、不思議な偶然に驚いています。
そういえば、『アンジェリカの微笑み』でも、主人公のイザクは、死んでいるアンジェリカに惚れ込んでしまい、その幽霊が現れた時も、幻にすぎないと否定するのではなく一緒に行動してしまうのですから、もしかしたら本作の松岡と共通するものがあるのかもしれません。