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天空の蜂

2015年10月02日 | 邦画(15年)
 『天空の蜂』を新宿ピカデリーで見ました。

(1)東野圭吾氏の原作の映画化ということで映画館に行ってきました。

 本作(注1)の冒頭は、1995年8月8日午前7時21分。
 錦重工業小牧工場で開かれる「ビッグB」納入式典に参加するために、湯原江口洋介)とその妻・篤子石橋けい)、それに長男の高彦田口翔大)の乗る車が、工場正門に到着します。
 通過するのに少々手間取ると、妻が「あんたが作ったヘリでしょ」と苛つきます。
 また、湯原が「高彦の授業参観はいつだっけ?」と訊くと、妻は「先月よ」と怒った調子で答えます。
 待合室で待機中に、高彦が近くの腰板を足で蹴っていると、湯原は「高彦、止めなさい」と怒ります(注2)。

 次いで、親がかまってくれないので退屈した高彦とその友達の恵太が、超巨大ヘリが置かれている格納庫を探検すると、ビッグBの後方搬入口が開いています。恵太は「危ないよ」と尻込みしますが、高彦が「映画でいっぱい見ているから、平気だよ」と言うので、二人はそこからヘリコプターの中に入り込みます。

 午前8時。格納庫が見える場所にいた男が、「時間が来た」と言って、手に持っていたコントローラーのスイッチを入れます。

 すると、ビッグBが自動的に動き出し、格納庫から出ていくではありませんか!
 それを見て、さらにヘリの中に高彦らが乗っているのを認めた湯原は、慌てて外に飛び出してそれを追いかけます。
 湯原は、「高彦、飛び降りろ!」と叫びますが、ヘリはどんどん先に。
 高彦は、先ず恵太を地上に投げ落とします。
 そして、自分も飛び降りようとしますが、すでにビッグBは地上を離れてしまい飛び降りることはできません。

 さあ、この先ストーリーはどのように展開するのでしょうか、………?

 1995年発表の原作に基づいているとはいえ、福島原発事故の後にこうした映画を見ると、一層リアリティが増すように思えます。それに、従来の邦画では見られないような迫力ある映像が次々に映し出され、加えて江口洋介、本木雅弘、綾野剛といった出演者が熱演していますから、なおさらです。ただ、犯人側の動機などにいまいち説得力が不足しているような気がしたところです(注3)。

(以下は様々にネタバレしていますので、映画を未見の方はご注意ください)

(2)本作の制作にあたっては、原作小説が文庫版で600ページを超える大作のため、様々な刈り込みがなされ変更点がいくつも加えられています。
 でもそうすることによって、逆に映画の面白さが増しているようにみえるのも興味深いところです。
 例えば、原作でビッグBの中に取り残されるのは、高彦ではなく友達の恵太の方なのです。ですが、映画のように高彦とすれば、父親で主役の湯原を中心にして映画が一層盛り上がるでしょうし(注4)、さらに、湯原の家庭の事情を明らかにして三島本木雅弘)と対比させることに随分と説得力が増しますし(注5)、また湯原と高彦の絆もクローズアップされて(注6)、映画版独自のラストシーンに繋がることにもなります(注7)。



 また、本作では、恵太の父親で湯原の同僚でもある山下カゴシマジロー)は、湯原がコントローラーを使ってビッグBの落下方向を変えようとする際に、「無謀すぎます」と言って止めますが、湯原は「われわれ技術者は、わずかな可能性があれば追い求め、それを積み重ねれば目的に届く」と答えて、勇躍自衛隊ヘリに乗り込みます。



 これに対して、原作では、山下が「僕が行きます」と申し出るのに対し、湯原が「いや俺が行くよ。最後は俺にかたをつけさせてくれ」と答えると、結局山下は「わかりました」と了解します(文庫版P.605)。
 あっさりと書かれている原作に比べて、映画では随分と格好いいことを主人公が口にするとはいえ、娯楽映画としてこのシーンは最後の山場への出発点であり、それほど違和感を覚えません。

 さらに、本作では、湯原が、コントローラーの入った段ボール箱を車に積み込んで工場を出ようとする三島を見咎めてその車に乗り込むと、三島は突然車を暴走させます。
 車の中で、三島は、「原子力発電所をストップさせたという映像は、すべてニセモノだ。政府は、一瞬間でも原発を停止させたくない。この国では、電気の方が人命よりも尊いのだ。お前の子供の命は賭けに使われたに過ぎない」とか、「誰も(自分の息子の)智弘を本気になって助けてくれなかった」などと、湯原が驚くようなことを口にします。
 原作でも、三島は湯原と山下をパジェロに乗せ、上に書いたような事柄を湯原や山下に語っています(文庫版P.568以下)。
 ですが、まだ湯原や山下は、三島が今回の事件に関与していることは知らないのです。ですから、湯原はコントローラーを取り返そうともしませんし(三島がそれを運び出そうとしているわけではありませんし)、また三島も車を暴走させようとはしません。
 本作におけるこの車の暴走シーンは、江口洋介と本木雅弘の車の中での闘いが半端ではなく、映画の緊迫感を高める上で大きな働きをしているように思います。



(3)とはいえ、なんでもいいから一矢報いたいと思っているように見える雑賀綾野剛)はともかくとしても、冷静な技術者である三島は、いったい何を求めているのでしょう?
 上記(2)で申し上げましたように、三島は、自分の息子・智弘を誰も救ってくれなかったことを憤っているようにみえます。
 確かに、担任の先生などがもっとよく注意していれば、自殺を未然に防止できたのかもしれません。ですが、責任は、そうした周りの人たちばかりでなく、三島自身にもあるようにみえるところです(注8)。

 それに、仮に三島の憤りが正当なものであったとしても、そのことが「都合の悪い現実から目をそむける人々に手痛い「蜂のひと刺し」を浴びせること」(注9)とされる犯人側の動機にどうやって繋がるのでしょう?
 人々が「都合の悪い現実」に目を向けたら、具体的には原発の存在に注意を払うようになれば(注10)、智弘のような自殺が起きなくなるのでしょうか?でも、智弘の自殺は、原発問題というよりも、むしろ「いじめ」問題の一環として捉えるべきものではないでしょうか?

 さらに、犯人側の動機に納得するにせよ、三島の思惑どおりビッグBを高速増殖原型炉の上に落とせば、「蜂のひと刺し」となって国民に注意を促す結果をもたらすのでしょうか?
 でも、なにより三島自身が、上記(2)で書きましたように、「原子力発電所をストップさせたという映像は、すべてニセモノだ」と言って、政府の対応が一筋縄のものでないことを熟知しているはずです。
 それに、ビッグBが高速増殖原型炉の上に墜落したとしても、実際には大したことが起こらないとしたら(注11)、政府がこの事件を出来る限り矮小化して、原発自体は何の問題もないという姿勢をとり、また世の中もすぐにこの事件のことを忘れてしまうことも、三島はよくわかっていたのではないでしょうか?

(4)渡まち子氏は、「原発の是非に答をだすよりも、あくまでも問題提起という立ち位置に徹したことが、この社会派エンタメ映画を意義あるものにしている」として80点をつけています。
 前田有一氏は、「映像化不可能と誰もが思った原作の強烈な批判精神を、まったく薄めることなく2時間18分間にたたき込んだ映画版「天空の蜂」は、近年の原発問題を扱った映画の中ではダントツの最高傑作である」として95点をつけています。
 日経新聞の古賀重樹氏は、「真の危機を知る者の声はなぜ届かないのか? それを徹底した娯楽活劇として描く」として★3つ(「見応えあり」)をつけています。
 読売新聞の大木隆士氏は、「福島第一原子力発電所の事故による被害の深刻さを経験した現在、その危機がよりリアルに迫る。社会性を持ちつつ、見事なエンターテインメント作品に仕上がった」と述べています。



(注1)監督は、『くちづけ』や『悼む人』などの堤幸彦
 脚本は楠野一郎
 原作は東野圭吾著『天空の蜂』(講談社文庫)。

(注2)なお湯原が、待機中に同僚に対して電話で、「高彦はあいつに育ててもらえばいい」とか、「俺があいつの父親になれる可能性はゼロだ」などと話し、それを高彦が耳にするというシーンがあります。湯原の家庭が酷い有様になっていることはこの電話でよく分かりますが、わざわざ電話で声高に話すことなのかなという気もします。

(注3)出演者の内、最近では、江口洋介は『るろうに剣心 伝説の最後編』、本木雅弘は『日本のいちばん長い日』、三島の愛人役の仲間由紀恵は『トリック劇場版 ラストステージ』、綾野剛は『ピース オブ ケイク』、刑事役の柄本明は『0.5ミリ』、所長役の國村隼は『at Home アットホーム』、向井理は『娚の一生』で、それぞれ見ました。

(注4)逆に、原作の文庫本の「解説」で真保裕一氏が述べているように、「(原作者の)東野圭吾は、過剰な演出を極力排除することで、静かで力強い物語を私たちに語ろうとしている」ように思われます(P.629)。

(注5)原作でも湯原とその妻・篤子との関係は描かれていますが、せいぜい「自分が篤子を選んだことは正解だったが、彼女のほうはあまり良いクジを引かなかったのではないかというのがこれまでの生活を振り返っての感想だった」と湯原の気持ちが記されているくらいです(文庫版P.18)。
 他方、本作においては、上記(1)や「注2」にも少々書きましたが、夫婦の関係が別居寸前のところまで来ているように思われます。

(注6)原作では、恵太はビッグBの無線を使って地上とやり取りをしますが(文庫版P.42とかP.214)、本作の高彦は、密かに習得していたモールス信号を使って地上の湯原と交信をします。
 原作通り無線とするよりもモールス信号による交信とする方が、ヴィジュアル的には盛り上がります(とはいえ、今時、親子でモールス信号を習得しているといったような状況は余り考えられないでしょうが)。
 なお、上記(1)で「高彦が近くの腰板を足で蹴って」と書いたのは、モールス信号で「ココニイル」と高彦が打っていたところ、湯原の方で気が付きませんでした。

(注7)大きくなって航空自衛隊の自衛官になった高彦が、「この国に命をかけて守るものがあるか?」と問う父親に対し、モールス信号で「ココニイ(ア)ル」と手で叩く場面が描かれます。
 なお、蛇足ながら、ラストのシーンが、安保法制が成立して出番が増えそうな自衛隊に対する応援シーンのようにも見えたのは、法案成立後に本作を見たクマネズミの目の曇りによるものでしょうか(尤も、安保法制の議論の中で航空自衛隊の役割については余り議論がなされなかったような感じですが)。

(注8)三島自身が、原子炉の開発・設計に関与していなければ、あるいは、関与していても家族の理解を得るようにしていれば、さらには、理解を得られずとも智弘の行動等に十分に注意していたら、智弘の死はなかったかもしれません。

(注9)劇場用パンフレット掲載の「OPERATIONS」より(P.44)。

(注10)まさか、三島は、誰の周りにも転がっているあまたの「不都合な現実」すべてに目を向けろ、と要求しているわけではないでしょう。

(注11)ビッグBに積み込まれている爆弾はダイナマイト10本に過ぎませんでした。
 なお、ラストでビッグBが突然爆発しますが、このダイナマイトが爆発したようには見えませんでしたが。



★★★☆☆☆



象のロケット:天空の蜂



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4 コメント

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Unknown (atts1964)
2015-10-02 07:57:34
原作が600ページもあるとは知りませんでした。だからいろいろ端折ったというか、粗い作りに感じてしまいました。
長くすればいいものではありませんが、テーマが原発と、日本経済の暗部を描いているので、作りこんで、プロローグ的なスピンオフを作っても良いのでは?とも思いました。
TBお願いします。
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Unknown (クマネズミ)
2015-10-02 21:43:44
「atts1964」さん、TB&コメントをありがとうございます。
「粗い作りに感じてしま」われたのは、長大な原作を端折っただけでなく、新たなもの(例えば、湯原の家庭の事情など)を付加したりしているからかもしれません。
おっしゃるように、「長くすればいいものではありません」が、あの『進撃の巨人』が2部作になるくらいなら、こちらの方を2部作にすべきなのかもしれません。
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Unknown (ふじき78)
2015-10-02 23:56:24
> 原作でビッグBの中に取り残されるのは、高彦ではなく友達の恵太の方なのです。

「天国と地獄」みたいですな。この変更のせいて山下の影がむちゃ薄くなっんじゃないでしょうか。
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Unknown (クマネズミ)
2015-10-03 06:30:32
「ふじき78」さん、TB&コメントをありがとうございます。
さすが、「ふじき78」さん、すぐに的確な事例を提示されますね!
なお、原作でも山下の存在はそれほど大きく扱われていませんが(映画版のように、特定の人物に大きなスポットライトが当たるのを避けているのでしょう)、本作のようにすると、なお一層その影が薄くなってしまい、演じるカゴシマジローって誰ということになってしまいます。
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