このところ外食が続いている。
毎日六千歩も歩けばよい方で、少ない日には四千歩くらいのことがある。病院と違い医院は狭く、二十歩も歩けば外へ出てしまう。しかも座っていることがほとんどで、口と指が動いているだけだ。朝の三千歩を除けばまとめて歩く機会はほとんどない。それで外食の一人前を昼夜食べていると太ってしまう(元々肥りやすい上に帰宅してからも何か摘むことが多い)。
一体一人前の量は何を基準に決めているのだろう。三十代男の腹八分が目安なのだろうか。外食チェーン店ではカロリー表示がされているところが多く、そうした店に入った時にはカロリー少なめのメニューを選ぶようにしているのだが、正直それは味気ない。
食べ物を残さないように躾けられてきたので、注文したものをわざわざ摂取カロリーを考えて残すということはどうもできない。食べたいメニューを八割方小振りに作ってくれるシステムあると良いと思う。ご飯を少なめにしてくださいと頼んだりしているが、値段は下がらないので僅かなことだが不合理に感じる。
ひょっとして値段ありきでそれからメニューというか材料や量が決まっているのではないかと思うこともある。小振りメニューを作ると単価が下がって困るのだろうか?
メタボが人口に膾炙しているのだから、大盛り100円増しの反対に小振り100円引きがあってよいと思う。食堂業界からは手間が掛かり単価が下がるのでさほど賛成はないかも知れないが、腹囲が気になる人の支持や厚労省の後押しは得られるのではないか。
格差社会と喧伝されたが、実は日本ほど格差のない社会はないらしい。格差が広がったというならその内容を検証吟味して明らかにしなければ、言葉と数字だけが突出し、単なるイメージに振り回されてしまう。
少なくとも当地では生活保護が機能して、当院で月に二十名余の患者さんが生活保護を使って十分な医療を受けられている。
格差縮小そのものが目的化して、その意義内容を評価分析することが忘れられているようだ。どうも目指す方向と施策の方法が間違っているのではないかと思う。
リーダー不在と言われる。日本の政界を見渡して確かにそうだと思うのだが、なぜだろうか。広い視野(大局観)を持ち決断力のある人物が育たない。
問答無用で格差を忌避する副作用で、秀でた人物を引っ張り降ろしているのではないかと懸念する。
先日医師仲間四人で会食をした。私も開業する前は病院のお付き合いで年に二三回ゴルフをしていたが、開業後さほど好きでもなく、才能もなく(これが主因)、時間とお金が掛かるので十年以上御無沙汰している。三人がゴルフのスイングの話を始めたら止まらない。
「左腕で誘導しないと安定しない」。野球のレフト打ちの感じでこうとスイングを始める。
「Aさんはアプローチが長すぎる。テイクバックがSの字を描いてるんだよな」。「あれでよく、ショットがぶれないなあ」。と居ない人の話が出てくる。そのうち「だいたい日本のレッスンプロは小手先の直ししか教えない。フックする人はフックをを治すだけ。そんなのは右手の手首の返しを抑えればいいんだから。もっと個性をきちんと評価して根本を伸ばすようにしないから駄目なんだ」。「そうなんだ、文科省といっしょでみんな一緒の型どおりの事を押しつけると」・・・。日本のコーチングが駄目という話からティーティングが駄目という話まで、ボールがスライスしてコースを外れて飛んできた。これをOBと見るかクリーンヒットと見るかは微妙なところだが、ゴルフは蘊蓄が尽きぬ競技のようで、時々合いの手を入れながら二時間近くスイングアプローチからパッティングまで聞かせて貰った。何だか久しぶりにコースに出たくなったし、ひょっとして話を聞いて上手くなったのではと錯覚?を覚えた。
アルコールはさほど強くないが、ワインを飲む会に混ぜて頂きフランス料理とワインを年に数回楽しんでいる。
先日の会ではH君が介護保険の会合で小一時間遅れたので、罰ゲームもどきにブラインドテイストをやって貰った。これはプロのソムリエでもやんわりと辞退する試みで、葡萄の銘柄、年代、産地を全て当てるのは並のソムリエには無理な注文なのだ。世界で名の通ったソムリエにも難しい。
われわれはどうせ当たらないが、ご愛敬でと思っていたら2006年のCt.Julia Chardonnayをなんだかギリシャのようだと言い出したのでたまげてしまった。しかもシャルドネで若い2000以降、2004年くらいですかとほとんど完璧に当てたので、店のソムリエがあたふた、U先生が凄いとびっくり仰天してしまった。
H先生以前に一度ギリシャの白を飲んだことがあり、その時のハーブの香りにどこか似ていたと言う。大体ギリシャなどと言うワインの世界ではマイナーで不評(近年挽回)国の名前が出てくることだけで、ソムリエ裸足だ。いやあ、神経内科医にしておくのは惜しいと、大騒ぎになった。
毎日美味い不味いと食べたり飲んだりする酒類を含めた食品の味は意外にも、正確に表現しにくく、それを味わい分けることは至難の業なのだ。それが証拠に殆どの人は美味い不味いで片付けてしまう。懐かしいお袋の味と言っても、それを表現しろと言われれば言葉に詰まってしまうだろう。尤もお袋の味はブラインドテイストでもアッこれだと当てられる人は多いかもしれない。何と言っても子供の時の記憶は深く忘れられないものだから。
今度、店のソムリエNさんと差しで勝負という話にNさん、ニッコリやんわりと尻込み、U先生「そうだなあ、ソムリエの人は知識は凄くても飲んでる銘柄はさほどでもないんだよね」。と助け船を出した。
楽しい話は酒の肴に最高、楽しい夜だった。
カレーには迷惑な話かも知れない。カレー大好きの私も多少心苦しいのであるが、カフェやそば屋の中にカレーのない店がある。これは憶測なのだが、私はそれを一つの見識と理解している。というのはカレーの持ち味は強烈で特にその香りは他の料理の微妙な香りをかき消して、しばしば店全体をカレー風味で席巻してしまうからだ。
新蕎麦の香りと言ったところで、微かなもので、口に含んで始めて馥郁と鼻腔を仄かに満たす程度だ。カレーうどんを脇で食べられては、わからなくなってしまう。カレー粉は他の調味料を圧倒してしまう。ほんの僅か出演しても主役に躍り出てくる。勿論そば屋の和風カレーは捨てがたく、何を食べても駄目なカフェでもカレーだけはなんとか食べられるというようなことはあるのだけれども、当店はカレーなしで微妙繊細な本来の味を出したいという考え方は真っ当のように思う。
と、ここまでカレーの話のようで、実はカレーは愛国心に似ていると申し上げたかった。私も故郷を愛する気持ち日本を大切にする心では人後に落ちないつもりであるが、それは心の奥に秘めておきたい。なんだかこの豚汁は出来が悪いこのスープは味がはっきりしない、それっとカレー粉を入れて調理の失敗を誤魔化してカレー味で供するような料理人は失格だ。
外交の失敗を愛国印のカレー味で誤魔化して乗り切ろうとする政府も同様、それを焚き付けるマスコミには頭を冷やして頂きたい。
ここに来て、凡庸で迫力のない谷垣さんが、意外に平常心を失わずまともで、悪くないようにも見えてきた。