中国漁船衝突映像流出事件で映像を漏らした保安官に罪がないとするような論調があるのを危惧している。国民の誰にも映像の一部が見られるようになったことと映像を漏らしたこととは別に分けて、その意義を論じなければならない。これをごちゃ混ぜにして、彼を英雄視するような短絡的な意見を大きく報道するのは、国民の目を眩ませる誘導だと思う。
曲がりなりにも国民に選ばれて行政を司る官邸の意向を、それがたとえ問題の多いものであったとしても、一保安官が覆すことはあってはならないことだ。その行為に罪がないとすれば、国の統制が崩れてしまう。例えば家族を潤すものなら違法に手に入れた富も賞賛されるのだろうか。盗人にも三分の理があるかもしれないが、違法は譲れない。この保安官は悪い人とは言い難いようであるし、映像の公開に一定の価値があるは思うけれども、その行為の違法性をないがしろにしては、私見私欲による正義もどきが跋扈する烏合の衆の国になる危険が出てくる。
菅仙谷政権が任に能わずとすれば、もどかしくても、野党が糾弾し民主主義の手続きによって結論を出すより他はない。
菅首相は世論と野党に自分の信念を持って反駁し説得して道を切り開かなければ統治能力を失ってしまう。それにしては、どうも目が虚ろだ。鼎の軽重を問われても、重みで首相の座に就いているのではなく、軽みが仙谷印の接着剤で背もたれに付着しているように見えてしまう。