駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

謎の一

2009年07月26日 | 身辺記
 仕事柄たくさんの人に会う。患者さんだけでなく家族も含めればそれこそ大変な数の人と知り合いなわけである。医療に関しては誰にも等しく専門的知識と技量を提供しているのだが、自然に診療以外の気心に多少の濃淡ができてくる。何となく馬が合う人がいるのだ。時間のある時は世間話をしてしまう。
 正直なところ異性の中には微かに魅力を感ずる人も居る。勿論、そうしたことはおくびにも出さないのだが、いつも非常に不思議な感じがする。というのは、そうした方はみんな所謂美人ではないからだ。どうして魅力的に感じるのか自分ではどうもよく分からない。絵画鑑賞が趣味の一つなのにと、自分の審美眼に自信が持てなくなる。それとどういうわけか、外見には共通点がない。さすがに極端に太ったり痩せておられる方はおられないが、太り気味や痩せぎすは支障とならない。だから自分には基準というものもないのかなと思う。微かに思い当たるのは、親切、丁寧、楽しい、はっきりしている、やさしいなど、性質には多少共通点があるかもしれないということだ。 異性に対する好感にはもっと外見が重要のように思っていたが、どうも違うようだ。それとも年をとってきたせいかな。
 いずれにしてもなぜ魅力を感じるか上手く説明できない微妙なものがそこにあるようだ。自分の感覚なのに自分には謎だ。
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戻り梅雨

2009年07月25日 | 自然
 夏空がどこかへ行ってしまった。しとしとでなくじとじとと雨が降ってくる。まるで梅雨に逆戻りだ。小学校は一昨日が終業式だった様子、折角の夏休みなのに腕白坊主どもはどこでどうしているだろう。
 今は小学校の校庭も迂闊に入れば咎められる世の中だ。気のせいか腕白坊主は少なくなったような気がする。よく遊ばなければよく学べない。塾はほどほどにしてやりたい。
 思い出はセピア色のフィルターで美しく見えるのかもしれないが、自分の小学校の夏休みは昆虫採集、魚釣り、水泳と朝から晩まで遊んでいた。今から思えば何度も危険な目にあったが、よく大怪我もせずに済んだことだ。
 干してある大根を石を投げて落としたり、農園の無花果の木を揺すって折ったり、肥溜めに石をほおりこんだり、本当に悪いことをした。おじさんに追いかけられ蜘蛛の子を散らすように逃げた逃げた。つけが回ってきているようで、これからもっと善行を積まないと帳消しにしてもらえないだろうなあ。
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其処此処に厳しい現実

2009年07月24日 | 世の中
 若い人は当然、中高年もさほど自分がどのような死を迎えるか考えていないだろう。勿論、自分がどんな原因で死ぬかはなかなかわかることではないが、どういった状況でどんな風にはある程度予測できると思う。まあ、そうした予測ができる人はこうしたことにならないのだろう。
 そう多いことではないが、高齢で身寄りのない一人暮らしの患者さんが徐々に衰弱してゆかれると途方に暮れる。名前は言えても年齢は分からない、支えがないと歩けない、食事はこぼす、排泄は意あるも失敗の連続。 
 実際には全く身寄りのない方はほとんどおられない。正確には身寄りが逃げてしまうのだ。兄弟が知らんぷりどころか、中には実子もさまざまな事情はあろうが、手を差し伸べてくれないことがある。確かにほとんど寝たきりの老人の世話は大変なことだとは思うが。
 私の住んでいる地区の行政はきちんとしていて生活保護で手厚く資金面の面倒は見てくれる。結局、ケアマネさん、ヘルパーさんそして時に訪看さんと協力してデイケアに頼み込んだりして、何とか面倒を見て行くことになる。言葉はきついが厳然とした事実として存在する世の吹きだまりに立ち会うと言葉を失う。
 ぼうぼうと吹きすさぶ不運と貧困の風の中には自業自得の罵声も混じって聞こえる。文字通りの陋屋に立ち、思案投げ首で手をこまねく私の眼に、たまたま担当になったというだけで迷わず手を差し伸べる優しい人影が写る。
 私は何処にもいる町医者なのだが、時折この極東の島国の森羅万象から十万億土に吹きすさぶニュートリノだろうか重力波だろうかの風に摩尼車がカラコロと回っているのが見える気がする。
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復帰第一作

2009年07月23日 | 身辺記
 再び絵を習い始めた。5年間のブランクがあり、小手調べに手許にあったスナップ写真を描いた。どうも構図がよくなかったようで、改心のできにはほど遠く、失敗作かなと思っていたのがだんだんまとまってくるのは不思議だ。
 絵を描くのは楽しい。絵を描くと物をよーく見るようになる。単純な白いコーヒーカップのようなものでもじーっと見ているといろいろな陰影色合いが現れてくる。
 もう夏休みに入ったので、来週モデルが遊びに来る。絵の感想を聞かねばなるまい。さて、なんと言ってくれるかな。きっと気に入ってくれ、写真に負けない記念になると思っている。
 ワン公の方はコーギらしく描けておらず、「ウーウー」とご不満のようであるが。
コメント (4)
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言わずもがな

2009年07月22日 | 世の中
 力のない時の総理を虚仮にするのが建設的とも思えないが、祖父の馬鹿野郎解散に対比して馬鹿太郎解散と陰口を叩かれているのではないか。
 今月号の文藝春秋で兄貴はずるい人間で己の利を計るように立ち回るなどと聞きづらい発言をしている自称白い鳩が、選挙後の政界再編の腹づもりを匂わせているが、そうした国民の信を経ない離合集散は仮設のもので正規の党とは認められない。
 小選挙区制の意義は政権交代により権力の腐敗を防ぎ、その時点でよりましな党を国民の手によって選択するところにある。理想を十歩いや百歩譲って二者択一に集約するのが政治というものだ理解している(勿論、少数意見を無視してよいと言うわけではない)。個々の人の意見は異見で、それぞれを実現することは不可能だ。実現させるとしたら全ての他者を黙らせ自分が独裁者になるしかあるまい。
 最近の政治家は小粒で能力胆力が劣ると嘆いても、実は政治家の程度は国民の程度を反映している。政治家は国民が育てるということを思い起こしたい。小泉批判を口にするのは容易だが、彼に力を与えた人は共同責任があるのを忘れず、自らをも総括する(懐かしい言葉)必要があるだろう。
 四十日は長く、十分にマニフェストをためすすがめつする時間がある。独自のマニフェストでございますと絵に描いた餅を持ち出す候補者には木の葉の投票用紙をあげよう。キャッチフレーズは目くらましの包装紙だ。なぜどうしてと掘り下げて自分の頭で分析したい。今、時代を読み人を見る力量を問われているのは国民の側だ。
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