駅前糸脈

町医者をしながら世の中最前線の動きを感知、駅前から所見を発信。

なぜ逃げられなかったと問うことは

2016年03月31日 | 町医者診言

               

 なんだかまだ朝は肌寒い、比較的暖かい土地なのだが桜がまだ二三分咲きで遅れている。

 千葉大生による中学校女子監禁事件に関して、どうして逃げられなかったと問うことは暴力だという記事を目にした。老人力が付いたので、書いた人の名前や所属を思い出せないが女性教官だったと思う。暴力だという表現は際限のない螺旋論議を誘発しかねないので賢明とは思わないが、書いてあることには同感した。

 監禁された女子生徒の心理肉体的な状況をその身になって想像することなしに、こうすれば逃げられたはずなどと言うのは、興味本位の高みの見物からの問いで、解決にもいたわりにもならない。問い詰めれば傷つけるだけなのを理解しない鈍感さは他人の不幸は蜜の味にどこか繋がる心性だと思う。

  しかしこうした指摘がどれだけ一般の人に理解され受け入れられるだろうかとも思う。他人の不幸は蜜の味とまで行かなくても不幸を他人事とあれこれ言うのは度し難い人間の一面で、勿論多い少ないがあって多寡が一番の問題なのだが、残念ながらその身になって思いやる考え方は中々浸透しにくいのが現実かも知れない。

 猫も杓子も使っている携帯の原理を説明しろと言われても、99%の人には難しいだろう。それには理工学的な素養と思考力が必要で、そうした能力を有する1%の有能優秀な人が居てくれれば社会は動いてゆく。一方相手の立場になって考えることには特別な知識や思考力は不要で99%の人に可能だったはずなのに、そうした心根が欠如している人が結構居るように見える。このことが、社会のごたごたを増幅している気がする。政治家には相手を思いやる気持ちが行き渡る社会を目指して戴きたい。敵対が敵を生み出し、憎しみが憎しみを引き起こすことは争いの歴史が教えている。

コメント
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