調布市の仙川駅の近くに出かける用ができた。少し早めに出かけて仙川駅の近くにあるという「実篤公園」に立ち寄ることを思いついた。下調べが不十分で、桐朋学園や神代高校や寺などにはばまれた格好で遠回りしてなんとかたどり着く。武者小路実篤については「新しき村」の実践や、「仲よきことは美しき哉」などの数々の絵色紙などが浮かぶぐらいで、詳しいことはなにも知らない状態だった。
公園敷地の大部分はなだらかな傾斜地になっている。公園管理棟の横の入り口を入り、坂道を下るとまもなく旧実篤邸が見えてくる。この日は立ち入ることはできずに応接間や絵筆などの置かれた仕事部屋などをガラス戸越しに見学する。すぐ近くには湧水を水源とした「上の池」がある。公園を二つに分けるようにフェンスで囲われた一般道がある。その下に掘られた短いトンネルをくぐると公園の「下の池」に出る。さらにもう一つ短いトンネルを抜けて昭和60年に開館した実篤記念館に着く。(右端はモクセイの若木)
実篤は階級闘争のない世界という理想郷の実現を目指して大正7年に宮崎県に「新しき村」を建設した。実篤は大正13年には離村し、村に居住せずに会費のみを納める村外会員となった。実際に村民であったのはわずか6年である。昭和14年に埼玉に「新しき村」ができ両村は今日でも現存する。実篤は「水のあるところに住みたい」という子供の頃からの願いをかなえ、調布に70歳で転居し亡くなる90歳までこの地で過ごした。最寄り駅が仙川であったことからこの家を「仙川の家」と呼んでいた。
白樺派同人の多くは学習院出身の上流階級に属する作家たちである。実篤の他に志賀直哉、有島武郎、木下利玄、里見惇、柳宗悦などがいる。同窓・同年代の作家がまとまって出現したこのような例は、後にも先にも『白樺』以外にない。彼らは恵まれた環境を自明とは考えず、人生への疑惑や社会の不合理への憤る正義感をすり減らさずに保ち得た人々だった。学習院院長であった乃木希典が体現する武士像や明治の精神への反発もあったようだ。