玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*日本民芸館

2019年04月15日 | 捨て猫の独り言

 だいぶ前に下北沢から駒場東大前あたりを散策したことがある。東大駒場キャンパスの見学後に、加賀百万石の当主だった前田家の洋館と和館がある駒場公園に迷い込んだ。ここは目黒区で下北沢は世田谷区だ。公園内には日本近代文学館がある。公園に隣接して日本民芸館なるものがあった。この日はどちらにも入館することはなかった。特に民芸館については当時は全くの無知だった。

 日本民芸館とは1889年生まれで民芸運動の主唱者で思想家、美学者、宗教哲学者である柳宗悦が1936年に開設した。大原美術館で知られる実業家の大原孫三郎から経済面の援助を受けた。民芸運動とは当時の美術界ではほとんど無視されていた日本各地の日常雑器、日用品など、無名の工人による民衆的工芸品の中に真の美を見出し、これを世に広く紹介する活動のことである。柳は朝鮮とのゆかりも深い。また沖縄文化の紹介、仏教彫刻家の木喰の研究、機関紙「月刊民芸」発行など活動した。

 柳は1914年に声楽家の中島兼子と結婚、母の弟である嘉納治五郎が我孫子に別荘を構えており、宗悦も我孫子へ転居した。やがて我孫子には志賀直哉、武者小路実篤ら白樺派の面々が移住し、旺盛な創作活動を行う。また柳は学習院時代の英語教師であった鈴木大拙に生涯師事し交流している。他力に支えられて無我の境地となったとき、相対的な美醜を越えた絶対の美の世界が実現すると述べている。

 桜が散り始めるころ、小平霊園へのウオークに出かけた。柳宗悦の墓所に参るのが目的だった。霊園案内図には「作家・民族研究家」とある。柘植、梅、椿、木斛、連翹などが植えられている。連翹が黄色く咲き誇っていた。柳には三人の男の子がいる。インダストリアルデザイナーの長男宗里、美術史家の次男宗玄、園芸評論家の三男宗民である。次男は、お茶の水女子大を定年後、武蔵野美術大学教授を務めた。

 

コメント
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