鹿沢館は標高1200メートルの高原にある。創業70年の瓦葺きの旅館だ。鹿沢館のある群馬の嬬恋村と軽井沢のちょうど真ん中に浅間山が位置する。上野からは3時間半かかる。8年前まで毎年中学2年生250名が学校行事で利用していた。45年も続いた。本館2階には全員が集まることができる百畳敷きの大広間がある。旅館の敷地内には7台の貸切バスが待機して連日峠まで運んでくれる。その峠から2000メートル級の山をいくつか登るのだ。昨年に続いて今年も高校生のバスケット部の6泊合宿の引率でこの旅館を訪れた。私は広島の原爆の日から長崎の原爆の日まで3泊した。
練習はすべて大学生のコーチに任せている。近くにある体育館はアザミ、その他名も知らぬ白や黄色の草花、ヨモギなどで囲まれている。その中に薄紫色の釣鐘状の花を開く草を一株発見した。おそらくホタルブクロだろう。練習の合間に旅館に一人戻って、かけ流しの大浴場に入る。湯は無色透明の炭酸水素塩温泉である。浴槽からはコマクサを眺めることができる。高さ約10センチメートルで6月が見頃という。水はけの良い砂礫が必要だ。細長い花冠の形が馬の顔に似ている。中部以北の高山植物として珍重されている。早朝5時には目がさめて一度目の温泉に入る。唐松林から聞こえる名を知らない鳥の声が私にはトクベツシタノカと聞こえる。水道の水は夏でも身を切るほどに冷たい。
国語科が出した夏休みの課題図書の一つに小川洋子の 「密やかな結晶」 がある。少しずつ何かが失われていく消滅が主題である。物とその物にまつわる記憶さえも消滅する。記憶が消滅しない人は秘密警察に連行される。体育館の風通しの良い扉の陰でこれを読んだ。私は再び嬬恋村を訪れることはないだろう。これも消滅の一つだろうか。これから消滅は自分に親しい主題となる。練習を横目に、熊笹の枯れ枝の先端に止まったトンボを観察する時間があった。
トンボは竿の先に止まる。トンボ鉛筆というネーミングは鉛筆先端のイメージから来ているのではないか。また小鳥などと違いトンボは急に後方へ身をひるがえす。トンボは風が強く吹くと、舞い上がって後退し舞い降りながら前進しちょうどもとの位置に戻る。この裏返しにならない円運動を繰り返しながら私のトンボは4時間以上も同じ場所に止まっていた。 「とんぼ返り」 には 「宙返り」と 「ある所へ行ってすぐ引き返す」 との二つの意味がある。観察したトンボの動きからこれらを二つとも説明できたと私は一人で合点した。新しい発見をした気分であった。