玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

沖縄旅行雑録(2)

2005年09月05日 | 沖縄のこと

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奄美諸島の与論島を過ぎるとすぐに、左手まじかに沖縄本島が見え始める。民間、自衛隊、米軍の飛行機の高度は、それぞれ300、450、600メートルと定められている。しばらく海上を低空飛行して南北むきの滑走路にそのまま着陸する。それゆえにベテランパイロットが配置されていると聞いた。学習旅行には普段の観光では体験できないようなプログラムが組まれている。

ひめゆり学徒隊の生還者や、海上基地反対の市民的不服従運動家の講演を聞く。ガイドの案内で鍾乳洞の内部に入る。沖縄のシンガーソングライターのホテルへの出張コンサートなどである。

宮良ルリさん(79歳)は伊原第3外科壕生き残り5人のうちのお一人である。後藤久美子出演の映画「ひめゆりの塔」などは宮良さんたちの証言に基づいて製作されたのだと今更ながら気づく。「戦場では人間が人間でなくなる」 「あの時までは生きていたのに」 「初めての化粧が死化粧とは」 またひめゆり平和祈念資料館では、「陸軍病院看護婦たちの沖縄戦」が戦後60年企画として8月末まで開かれていた。

真喜志好一(よしかず)さん(61歳)は建築家で、一坪反戦地主会、白保の海と暮らしを守る会、沖縄環境ネットワーク、平和市民連絡会などに関わる。ジュゴンの棲む豊かな海を守りたいと訴える。「こと人権にからむとき多数決はダメだ」

山内栄さん(53歳)は琉球大学非常勤講師で、沖縄史から軍事問題、地質学に至る豊富な知識と絶妙な話術のカリスマガイドである。約270メートルのアブチラガマ=糸数(いとかず)壕は負傷者、軍医、衛生兵など数百人がいた。ひめゆり学徒は16人だった。ガマの入口と出口は極端に狭い。途中は漆黒の闇で懐中電灯がないと一歩も動けない。終戦直後には丸木の二段ベットの上に白骨化した遺体がたくさんあったという。

シンガーソングライターの海勢頭豊さん(61歳)は映画「月桃の花」の総合プロデュ-スと音楽を担当した。カチャーシーは祝宴などの最後にみんなが一緒になって踊る自由群舞である。男はかるくこぶしを握り、女は手のひらを開く。左右の手はそれぞれ違う動きだ。同じだと阿波踊りになる。コンサートの最後にリズム勘のいい生徒たちが意外に手こずっていた。
写真は那覇市の公設市場、クリックすると拡大します。
        



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