玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

よそ者意識

2005年09月24日 | 捨て猫の独り言
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 私の方言(鹿児島弁)を私は自由に話せない。この私の思いをいつもの肩肘張った表現でもってすればつぎのようになるだろうか。「生まれて高校生になるぐらいの頃まで、単一の地域社会で育つことが出来た者は幸いである。なぜかといえば、無意識のうちに土着の思想が完結した形で身につき安定した人格が形成されるからである。思想とは言葉だからである」

 私の記憶は奄美での小学1年から始まる。色白で泣き虫で学校に行きたくないと駄々をこねた。親は島の言葉を話さい。学校では標準語を話そう運動が盛んだった。当時の私はそれを当然のこととして受け止めていたに違いない。なぜなら島言葉を話せないのである。よそ者意識が芽生えた。小学2年で沖縄に移る。沖縄はいはゆるアメリカ世で上陸して飲んだコカコーラの味は強烈だった。ピクニックで訪れた洞窟(ガマ)は異臭が漂っていた。その当時沖縄戦については詳しいことは知らない。悲しいことに沖縄の文化は完璧に破壊されつくされていたせいか、混乱のなかよそ者であることの意識はそれほど無い。1年してすぐもとの小学校に戻る。転校生として紹介される。ボタンの掛け違い現象に似てなかなか本筋に戻れないことが続く。

 小学6年の2学期に進学のため鹿児島の親戚宅に寄宿することになった。長い船旅のあとに、はじめて見る桜島、黒光りする巨大な蒸気機関車には圧倒された。小学校高学年となると転校生に対する洗礼が待っていた。そり投げの相撲強者と対決である。青白き転校生はうっちゃり勝ちで切り抜けた。子供社会は少年を生徒会副会長に選出した。よそ者が誇らしげであった数少ない瞬間である。

 奄美、沖縄、鹿児島はたがいに交流困難なほどそれぞれ独自の言語圏を形成している。才能の問題もあるだろうが、そんな生い立ちの私は三つのどの言語も上手でない。写真は沖縄の佐喜真美術館にある亀甲墓。



コメント (2)
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