玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

演説は失敗した

2005年08月26日 | 捨て猫の独り言
相変わらず眼が不自由だが8月に2冊の本を読んだ。最近にはないことだ。そのうちの一つはTBSブルタニカ「戦争の記憶―日本人とドイツ人」イアン・ブルマ(1951年オランダ生まれ)著である。

1988年11月10日ドイツ連邦議会のイェニンガ―議長は「クリスタルナハト」50周年の追悼演説を行った。イェニンガー議長は1942年のユダヤ人大量虐殺の目撃者証言を引用した。血を流してからだをひくつかせる赤ん坊、裸の母親たち、くわえ煙草で銃を撃つ若い処刑者たちーすべてが微に入り細にわたって、感情のこもらない平板な口調でこれでもかこれでもかと語られた。イェニンガ―はヒムラーの言葉も引用した。百人、五百人、一千人の死体を前にしてさえ、たじろいではならないと親衛隊に説教したエピソードが紹介された。またイェニンガ―はユダヤ人を「社会の害虫」と呼んだたぐいの当時のナチス用語を紹介した。さらにイェニンガ―はニーチェやドストエフスキーを引用した。

演説が始まってまもなく緑の党の議員の大半が抗議の意味を込めて議場を去った。社会民主党議員も演説が終わるまでには4割は姿を消していた。イェニンガ―は蒼白な額に汗をいく筋かしたたらせてただ独りで議場をあとにした。所属政党であるキリスト教民主党の議員たちでさえ握手しようとはしなかった。二日後イェニンガ―は辞任した。ところでドイツ人がなぜあれほどまでに演説に動転したのか理解するのは容易ではない。イェニンガ―は事実を語っただけである。

イェニンガーの演説は、ヴァイツゼッカーが3年前行った有名な演説に比較された。ヴァイツゼッカ―の演説は「トラウァー(哀しみ)」にあふれていた。イェニンガ―が失敗したのは状況判断を誤って、追悼の場で「まじめに歴史を論じる演説」をしてしまったことにあるというのが大方の意見である。

同じ年日本では長崎市長の「天皇に戦争責任あり」の発言が波紋を呼び、その本島市長が右翼に背後から狙撃されて瀕死の重傷をおうという事件が起きた。著者はこの2つの事例の共通点を検討している。

コメント (2)
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