玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

徴兵忌避の話

2005年08月14日 | 捨て猫の独り言
ある本のなかに、過去に私が興味深く読んだ新聞記事が取り上げられているのを見て懐かしく見入った。

俳優の三国連太郎さんは昭和18年に20歳で戦争反対運動の隅っこの方にいて捕まる。大阪の警察署に入れられて、そこに赤紙が届く。三国さんは静岡の出身で静岡に戻ってそこから兵隊になる。しかし大阪駅まで来て、三国さんは逃げようと思う。自分は人を殺したくないし、殺されたくもない。徴兵忌避をやろうと貨物列車に乗って西へ向かい、山口県の小郡まで来た時に母親に手紙を書く。「自分は迷惑をかけるかもしれないけれども逃げる。朝鮮に渡り、最後は中国に行くつもり」と。そして佐賀県の唐津まで来て船を捜しているうちに捕まってしまう。さすが三国さんで、そのとき女性連れだったという。なぜか拷問などなく静岡に連れていかれて兵隊に行く。そこに母親が最後の面会に来て 「いろいろたいへんだろうけれども、お国のために・・・・・・・・・」というようなことを言う。母親が憲兵隊に手紙を見せたんだなと思う。

しかし幸い生きて帰ってきた。そのあと下積み時代を経ていよいよ俳優として売れるようになってから両親がつぎつぎつぎと亡くなる。父親という人は代々棺桶作りの職人で差別を一身に受けながらそれに負けなかった。三国さんは「チチキトク」というときには、取るものもとりあえず帰った。「ハハキトク」というときにはなぜかすぐに帰る気になれず「ハハシス」というのを受け取って帰る。そして母親の遺体の入った柩を抱きかかえたときに背筋をゾーッと冷たいものが走った。そのとき三国さんは、ああ自分は自分を国に売った母親をどこかで許していなかったんだなと思う。しかしあのころ息子を国に売らなかった母親はいない。

このインタビューで三国さんが言いたかったことは、反戦というよりも親子の関係の在り方ではなかったか。親は子が自立したならば一個の人格として尊重すべきである。親としてこれを実践することは意外と難しい。また最近は、子としてマザコンと言う言葉がある我が風土である。三国さんは、母親に 「あなたの人生だから、自分の考え通りに生きなさい」と言って欲しかったのではなかったか。

コメント
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