玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*脳と意識

2019年07月15日 | 捨て猫の独り言

 「14歳からの哲学」を遺した池田晶子の数々の著作から私が学ぶことは多い。そのうちの一冊「メタフィジカルパンチ」は人物批評の書である。その中に小林秀雄と養老孟子も取り上げられている。私にとっても関心の深い二人だ。この池田の単刀直入の批評を介して私は小林、養老に対する理解を深めることができた。と言うより小林、池田、養老の三者には共通の問題意識があることに興味を持った。それは「脳と意識」というテーマだ.

 

 養老先生はユニークな方である。「個人心理何ていうものは存在しない。存在するのは社会心理だけ」とおっしゃる。また「基礎的な学問の秘訣というのはとにかく問題を一番極端な所までもっていくことなんです。たいてい学問には両極あります。今いる所が一方の極だとすれば、もう一方の極が一番極端な所と見ればいい。一番極端な所で成り立つ話というのを考えれば、あとはもうどうでもいいんです」と種明かしをなさる。

 養老先生はある対談の中でつぎのように語っている。「この意識というのが自然科学と非常に折り合いの悪い問題でありまして、私は話の枕に、小林秀雄の〈物質を調べて精神が分かるか〉という言葉をしばしば引用します。それはその通りで分からないのかもしれない。つまり物質を何らかの形で抽出するとか、組み立ててそこから意識を作り出せるかというと、それはもう分からない」

 「メタフィジカルパンチ」の養老先生に対する池田の批評はつぎの通り。「唯脳論は脳ということでお話を始めれば、そのどちらの側からも、かたられるということを示す方法である。あれは唯脳法である。脳と意識が平行だという前提なのです。脳は物でも心でもあるのだというわけ。こんなズルイやり方ってありますか。そして人々は脳化社会をいう養老氏が同時に脳は自然である。なぜなら脳は人間が創ったものではないからだと述べているのを妙だとも思ってない」

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