玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*津田梅子

2019年06月03日 | 捨て猫の独り言

 木曜日の津田塾の公開講座を2週連続して聴講した。この日は学長の高橋裕子氏の「大海をわたった、津田梅子のあゆみ」である。1871年(明治4)12月、日本初の女子留学生の5人のうち最年少7歳の津田梅子は欧米視察の「岩倉使節団」と共に横浜を出港する。サンフランシスコからシカゴを経由してワシントン近郊のランマン夫妻に預けられたのは日本をたって70日後だった。

 「家庭生活」を学ぶという目的で選ばれた5人が維新政府に敗北した側の出であることは興味深い。5人のうち年長の2名はすぐに帰国する。残る3名の山川捨松(のちに大山捨松)と永井繁子(のちに瓜生繁子)と津田梅子は成長して11年後に帰国する。津田梅子はランマン夫妻のたった一人の子供としてだいじに育てられた。そのあと3名は生涯にわたる付き合いが続き、梅子の女子英学塾の開校に協力することになる。

 さて帰国した梅子は逆カルチャーショックに見舞われる。日本語を失っていた梅子は母と話ができず、父とは英語で話した。1889年に再度アメリカのブリンマー大学に留学して生物学を専攻する。在学中から、自分のあとに続く日本女性のための奨学金制度を設立し、のちに25名がこの制度を利用した。そのうちの一人である星野愛は津田塾大学の初代学長となる。再度の留学から帰国して華族女学校などで教鞭をとるかたわら、ついに1900年女子英学塾を創設する。このように梅子らの留学は、家庭生活を学ぶという当初の目的をはるかに超えたものだった。(津田塾大学のキャラボクと松)

 

 1984年に校舎の屋根裏部屋で古いトランクに入った大量の文書が発見された。梅子直筆のブライアン・ランマン宛の私信である。これは当時の日本とアメリカを知る貴重な資料として、五千円札に梅子の肖像が採用された時と同じぐらい大きな話題になったという。卒業生で作家の大庭みな子の「津田梅子」はこの資料をもとに書かれた。山川捨松については横浜港から旅立つとき、母が「娘のことは一度捨てたと思って帰国を待つ(松)のみ」という思いから「捨松」と改名させたという。大山巌陸軍大将夫人で、「鹿鳴館の花」と呼ばれた捨松は大河ドラマの主人公になってもおかしくない人物だ。 

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