玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*二つの裁判

2008年02月12日 | 捨て猫の独り言

 99年4月に起きた光市母子殺害事件と06年8月に起きた福岡3児死亡事件については多くの人々の知るところとなっている。前者は差し戻し控訴審で21人の弁護団の結成や、今回大阪府知事に当選した橋下弁護士がその弁護団に対する懲戒請求を勧めたテレビ発言問題などがある。後者は危険運転致死罪のハードルの高さや、同乗者不起訴は不当と検察審議会に被害者から申し立てがなされたことなどが話題になる。

 このような刑事裁判のことでまず一番に思うことは被害者側の深い徒労感のことである。多くの時間と費用をかけなければならない。起きてしまった罪に対して罰が決定される。その手続きが裁判だといえる。しかし肝腎なことは被告人自身の犯した罪に対する深い反省である。それがなければ裁判の意味がない。二つの裁判とも被告人が人として考え抜いた反省をしていると思われない。被告人には迷い多き保身の考えしか見えてこない。

 いかなる被告人もその利益を守るために弁護人がつく。弁護人が守るべき利益とは何だろう。弁護人といえどもまず被告人に罪に対する反省を求めるところから始めるべきではないか。被告人の再生が第一の目標でなければならない。裁判の意味はそこにしかない。それこそが被告人の利益ではないか。

 二つの事件に対するメディアの突出した報道ぶりから私達は被害者の生の声を聞くことができる。本村洋さんの差し戻し控訴審の意見陳述書(07年9月20日)の全文を読んだ。死刑を望むと結論しているが何よりも反省を求めている。考えに考え全存在を賭けた文章だ。この裁判に関わる者はこの文章に見合う言葉を用意しなければならない。もう一方の大上哲夫さん(かおりさん)も被告人以外の3人の謝罪(反省)を求めて起訴の申し立てを行った。その会見での表情は苦渋に満ちていた。私達はいつどんなできごとで被害者になり加害者になるかわからない。その時こそこんな言葉が必要になる。「人間には命よりも大事なものがある。それが精神だ。精神の正しさ、美しさ、その高さだ」(池田晶子・14歳からの哲学・122頁)一年後に裁判員制度が始まりますね。

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昔深くかかわった知人の刑事裁判で、裁判とはお金... (sonoe)
2008-02-12 20:57:57
昔深くかかわった知人の刑事裁判で、裁判とはお金、つまりいかに優秀な弁護士を雇えるか、だと痛感しました。「情」に弱い日本人には欧米流のjury systemは難しいと思います。裁判員になると仕事を離れ、家族にも心情を発露できず、数週間、場合によっては数ヶ月も心身を拘束されるのです。私は「言葉が不自由」という大義名分でこの国での義務を断ってきました。加害者は当初の反省は失せて「裁判」に勝つことのみに躍起となります。
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上記で言いたかったこともう一つ、判決が出るまで... (sonoe)
2008-02-12 21:09:30
上記で言いたかったこともう一つ、判決が出るまでに加害者も次第に「被害者意識」を持つようになるケースが多いということです。歴然とした交通事故の加害者でも優秀な弁護士の力でどうとでもなり得るのが現状です。裁判とは検察側と弁護士との「究極の言葉の遊び」だなと思ったりもします。
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日本にも交通事故の時は先に怒鳴った方が勝ちとい... (陪審員)
2008-02-13 10:40:55
日本にも交通事故の時は先に怒鳴った方が勝ちという程度の生活の知恵はあります。欧米流の裁判感覚は我々には理解を超えたものがありますね。究極の言葉遊びと言う指摘は的を射ていると思います。言葉を遊び道具にしてしまう不幸としか言いようがありません。裁判員制度のスタートを前に法廷が新築や改装されたというニュースが流れていますが、予想外に静かです。自分だけには通知は来ないと思っているようです。辞退者続出の場面も予想されます。日本流の陪審員制度が育つことを祈るしかありません。
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