99年4月に起きた光市母子殺害事件と06年8月に起きた福岡3児死亡事件については多くの人々の知るところとなっている。前者は差し戻し控訴審で21人の弁護団の結成や、今回大阪府知事に当選した橋下弁護士がその弁護団に対する懲戒請求を勧めたテレビ発言問題などがある。後者は危険運転致死罪のハードルの高さや、同乗者不起訴は不当と検察審議会に被害者から申し立てがなされたことなどが話題になる。
このような刑事裁判のことでまず一番に思うことは被害者側の深い徒労感のことである。多くの時間と費用をかけなければならない。起きてしまった罪に対して罰が決定される。その手続きが裁判だといえる。しかし肝腎なことは被告人自身の犯した罪に対する深い反省である。それがなければ裁判の意味がない。二つの裁判とも被告人が人として考え抜いた反省をしていると思われない。被告人には迷い多き保身の考えしか見えてこない。
いかなる被告人もその利益を守るために弁護人がつく。弁護人が守るべき利益とは何だろう。弁護人といえどもまず被告人に罪に対する反省を求めるところから始めるべきではないか。被告人の再生が第一の目標でなければならない。裁判の意味はそこにしかない。それこそが被告人の利益ではないか。
二つの事件に対するメディアの突出した報道ぶりから私達は被害者の生の声を聞くことができる。本村洋さんの差し戻し控訴審の意見陳述書(07年9月20日)の全文を読んだ。死刑を望むと結論しているが何よりも反省を求めている。考えに考え全存在を賭けた文章だ。この裁判に関わる者はこの文章に見合う言葉を用意しなければならない。もう一方の大上哲夫さん(かおりさん)も被告人以外の3人の謝罪(反省)を求めて起訴の申し立てを行った。その会見での表情は苦渋に満ちていた。私達はいつどんなできごとで被害者になり加害者になるかわからない。その時こそこんな言葉が必要になる。「人間には命よりも大事なものがある。それが精神だ。精神の正しさ、美しさ、その高さだ」(池田晶子・14歳からの哲学・122頁)一年後に裁判員制度が始まりますね。