玉川上水の辺りでハナミズキと共に

春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり (道元)

*山頭火の妻

2013年12月16日 | 捨て猫の独り言

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 市立の図書館には中央館、地区館、分室とある。分室に足を運ぶことはほとんどないのだが、ある時めずらしく訪れた近くの分室の本棚で「山頭火の妻」という単行本に出会った。著者は35年生まれの女性で63年から92年まで熊本県警に勤務したという経歴の山田啓代(みちよ)である。読売新聞社から94年に出版されている。私が読後にネットで調べたこの本の紹介文に「放浪・弧高の俳人を陰で支えた妻・咲野をモデルに、酒乱で生活能力のない夫との人間的な葛藤を描いた」とあった。私はこの夫婦の行き違いが「葛藤」と呼べるのか疑問に思う。生前には必ずしも理解しあえたとは思えない夫と妻。夫の没後、妻はどんな思いで三十年近くを生きたのだろうか。

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 種田山頭火、本名は正一は1882年(明治15)山口県の現在の防府市に生まれる。大地主の長男である。父親が政治などに首をつっこみ家政が乱れ、父親の行状も乱れて、母親が33歳で自宅の井戸に身を投げる。20歳で上京、早稲田大学文学部に入るが、25歳の時強度の神経衰弱におちいり退学、帰郷する。28歳で結婚、その翌年ごろより大酒を飲むようになる。佐藤咲野は89年に生まれ20歳で隣町の種田正一と結婚した。山頭火の場合は「坊主になるから嫁はもらわぬ」と言っていた男が承知したほどの縁談だった。初々しい咲野を前にしては、それまでの言動がたわごとに思えたのではなかったろうか。

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 ところが咲野は新婚一週間目にして早くも夫の正体に出会うことになる。彼はなんのことわりもなく家を抜け出ては、はるかな街に友をたずね、酒を求めては徘徊するようになる。家を飛び出して何日も帰らないからといっても、咲野に対する愛情がないわけでもなさそうだった。咲野は次第に妻としての立場をのみこんでいく。一年後に咲野は母となった。長男健の誕生である。種田家が破産し長男健7歳の時一家は熊本に移り住み、古書籍店「雅楽多」を開店する。やがて咲野の才覚で額縁やアルバムを扱う店となる。夫婦の間を親戚によって裂かれたようだ。咲野31歳の時に離婚届に押印したが、その後も別れているような繋がっているような関係が続いていく。息子の健は就職してから父親に仕送りを続けている。そのとき咲野は寛大に息子の親孝行をよしとしたのか、それともわが子の生活までおびやかしている山頭火を許せずにいたのか。

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 私たちに妻・佐藤咲野自身の言葉は残されていない。山頭火の句や日記や書簡と、母親のことを快く話してくれた長男の種田健氏の言葉から咲野の心の内を推測するしかない。健氏の言葉の一部をつぎに記す。「山頭火がああなったのは、母のせいだと悪く言う人もいますが、息子の私にとっては、母は大恩人でした。私を育てるために、母はだんだん強くなっていったのです。強くさせられた女だったのですが、それが山頭火にはうとましかったんでしょうな」「山頭火が生涯堅気になりきらなかったのは、親の躾が悪かったからです」「母は感情が死んでいましたね。私の結婚にしても、別にこれといった感慨はなかったようです。山頭火は私の結婚のことは聞いていた筈ですが、式に出席もせず、電報も来ませんでした。母の実家の佐藤家の伯母と、山頭火の妹の町田シズが出席してくれました」

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