あられの日記

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トーハクの庭園紹介

2019年07月11日 05時34分53秒 | 展覧会&観光施設&能楽
トーハクこと上野にある東京国立博物館の裏に、庭園がありまして、普段は一般立入禁止です。でも春と秋に期間を限り公開してまして、訪問の2019年5月18日は春の庭園公開期間でした。昨日に続き、庭園内にあるあれこれを紹介。
転合庵:配ってたチラシによりますと
小堀遠州(1579-1647)にが桂宮から茶入「於大名」を賜った折、その披露のために京都伏見の六地蔵に建てた茶室です。その後大原の寂光院に移築され、昭和38年(1963)当館に茶入とともに寄贈されて現在の位置に移されました。
木造平屋建て、切妻屋根、瓦葺、二畳台目向切院、遠州好み、四畳半座敷、水屋などがあります。
*転合庵の脇の四角い土壇は、重要文化財の旧十輪院宝蔵(校倉)が建てられていた跡です。現在は法隆寺宝物館の脇に移され、一般公開されています。
あれ?
それ見てない〜〜!!
実はこの日、5月18日は国際博物館の日でトーハクの総合文化展(一般展示)が無料公開の日でして、久々にトーハクを見学してまして、あまりの量にぶっちゃけ疲れきっちゃったんです。で!法隆寺宝物館までたどり着けなかったんだぁ〜〜!!
やっちまったぜ。

竹の皮の扉。凄いようです。見方が分からない〜。
十輪院校倉跡
転合庵の解説の最後に出てきた「跡」石の基壇のみ残ってる。上モノは法隆寺宝物館の脇に展示してます。
あれ?配布してるチラシをガン見してたのに、有馬家の墓石が撮影出来てない?
なぜだ!?
有馬家の墓石はトーハクの裏の庭園がかつて寛永寺の本坊の庭だった頃の数少ない名残なんです。でないと、トーハクの庭に墓石があること自体がおかしいでしょ?
ってなことで見える場所を探した。
探してわかったことは、有馬家の墓石に続く道がない!「緑地内に入らないでください」とチラシに書いてあるので、散策路から撮影した画像を切り出して貼り付けました。チラシによりますと、
有馬家の墓石:
寛永寺の面影を今に伝える越前藩主有馬家の墓石。記録には明治15年(1882)から19年(1886)にかけて、公園として整備するために博物館敷地内の墓所が整理されたとあります。なぜならこれらの墓だけがここに残されたのかわかってません。」とある。
何故残したんでしょうねえ?墓石の小ささから、藩主筋の人物の墓石じゃなさそうだけどなあ?せめて石に刻んである文字が読めたら手がかりになりそうだけど、近づけないから謎のまま。
移動。ってか、ダンナとはぐれた〜。有馬家の墓石探しに夢中になってしまい、ダンナの現在地を見失ってしまいました。やっちまったものは仕方ない。見つけてくれるのを待とう。
町田久成の碑:平成館の前の銅像の初代館長が町田久成です。いただいたチラシによりますと「初代博物局長(館長)町田久成(1838-1897)の顕彰碑です。町田久成は天保9年 (1838)薩摩(現在の鹿児島県)に生まれました。19歳で江戸に出て学び、慶応元年(1865)に渡英。大英博物館などを訪れ日本での博物館創設を志、帰国後初代博物局長として日本の博物館の基礎を築きました。文化財調査や保護を提唱し、自らの財産を投げ打って古美術品を買い求め文化財の散逸を防ぐことにも尽力しました。明治15年(1882)に退職、仏門に入り、明治30年(1897)9月15日上野で没しました。寛永寺津梁院に墓があります。
春草盧:チラシによりますと
「江戸時代、河村瑞賢(1618-1699)が淀川改修工事の歳に建てた休憩所で、その後大阪へ、さらに横浜の三渓園へ移築され、昭和12年(1937)に埼玉所沢にある松永安左エ門(耳庵1875-1971)の柳瀬荘内に移築されました。昭和23年(1948)に柳瀬荘が当館に寄贈されて、昭和34年(1959)春草盧は現在の位置に移されました。入母屋の妻に掲げられた「春草盧」の扁額は、能書家として知らされる曼殊院良尚法親王(1622-1693)の筆で、原三渓(1863-1939)が耳庵に贈ったものです。
木造平屋建て、入母屋造、茅葺き、座敷は5畳と3畳からなります。」
!!つまりかつてはこの建物は横浜の三渓園にあった!んですね。ご存知のように三渓園は日本全国から原三溪が集めてきた建物のテーマパーク状態。けど関東大震災で被災して、往時に比べ建物が随分減ってしまったとか。原三渓は1939年に死去、その2年前に電力王と呼ばれた松永安左エ門にこの建物を贈った流れが興味ふかいなあ。わざわざ扁額を作った上で耳庵に贈った建物だから、思入れもあったと思うんだ。
第二回内国勧業博覧会の碑:チラシによりますと
「明治政府は勧業政策の一環として博覧会を開催、その後第1回から第3回の会場が上野公園でした。明治10年(1877)の第1回博覧会では、本館北側のバルコニーあたりに、日本で初めて美術館という名のレンガ造の建物が建てられました。この美術館の前面にジョサイア・コンドル(イギリス1852-1920)設計の博物館旧本館が建てられ、明治14年の第二回内国勧業博覧会でで使用されました。第1回は会期102日、入場者数は45万人を超え、第二回は会期122日、入場者数は82万人に上りました。博覧館は産業の振興におおいに役立っただけでなく、美術作品の出品も多く美術の振興にも寄与しました。ちなみに、博覧会への出品物は特別に購入予算が計上されて博物館に買い上げられており、現在も明治期の工芸コレクションの重要な一部になっています。当館に碑が残っているのは、この第二回のみです。」だとか。
石碑ってさ大事。あちこちに残ってる。読めば歴史が分かるものも多いんですが、石碑を読んだこと実はない!大事なんだけども。(大切なことなので2回書く)なんとか、石碑の隣に説明板を設置してほしい。後世のために。
五重塔:チラシによりますと
「高さ5、7メートルの銅製の塔。最上部の相輪には龍が絡みつき、垂木・斗拱の組み物の細部まで入念に作られています。基壇に第5代将軍徳川綱吉(1646-1709)が法隆寺に奉納した旨の銘文「大和国法隆寺元禄元年十二月日常憲院徳川綱吉」が線刻されています。綱吉の存命中に、院号と俗名を併記することは一般的にないため、没後奉納時の年号と施主の銘文が書き加えられたのでしょう」だとか。
五重塔の歴史もなかなかですが、設置してあるのが、数少ない旧寛永寺の本坊の庭の名残の築山です。お庭を見物してた時はその事実に気づきませんでした。
さて?ダンナな?歩いてたらダンナから電話があって、この先の鉄燈籠で待ち合わせなのですよ。
いた!ってか、まさかのこれが鉄燈籠だったとは!だって燈籠じゃないじゃん〜?
鉄燈籠:チラシによりますと
「石の台に据えられた鉄製の燈籠。火袋は松皮菱を透かし、竿には雲龍文を鋳出しています。しかし、鉄製のためサビが著しくつき、昭和57年(1982)1月の台風で、竿から上が倒壊し、現在各部は別に保管しています。今は基壇だけが、そのままの状態でおかれています。
銘文はありませんが、作者は茶の湯釜師として有名な江戸名越家の6代目、名越建福(1819没)と伝えています」だとか。
む〜ん?材料の鉄に混ざり物が多すぎたのかな?インドで見たオーパーツの鉄柱は見事に残ってたけどな〜。
ちなみに、この周辺には石の燈籠もありましたが、チラシにも由来が書かれてなくわかりません。
ダンナと無事合流。しばらく池を眺めて移動。時刻は早くも13時11分です。予想外に時間が足りない!とりあえず東洋館を見てからどうするか考えよう。

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