今はもうない。
生駒氏時代の天守閣は、絵図が古文書によると三重だったとされている。
松平氏時代の寛文10年(1670)に改築された天守は三重5階(三重4階+地下1階)の南蛮作りで四国最大の規模を誇っていましたが、明治17年(1884)老朽化を理由に取り壊されました。
平成17年から天守台修復工事が行われ、発掘調査の結果地下1階部分から58個の礎石が当時のまま現れました。」チラシより
では早速向かうとしよう。高松城の天守へは二の丸から鞘橋で繋がってます。トップ画像です。江戸時代中期末ごろに屋根付きになったとか。現在の橋は明治17年の天守解体の時に架け替えられたもの。大正時代に橋脚が木製から石製に変えられたことが古写真から判明しています。
鞘橋を渡ってると?何か来た!
和船です。内堀を和船に乗って行けるのね。
菅笠だっけ?と葵の御門のはっぴもいいね。
反対側も見所があった。
分かります?画像右手が二の丸跡。画像左手が天守のあるところ。注目して欲しいのは内堀の奥です。これ、何だ?
答え:琴電高松築港駅。琴電の始発駅なので、電車が長めに止まります。お城のお堀と石垣と電車のコラボ画像ゲットです。
せっかくなのでお堀の石垣と電車を切り出してみた。
いよいよ天守閣跡が見えてきた。正面の石段を登る。
何か記憶の景色と違うんだよね?
理由は説明板を見て判明。そうよ。かつての高松城の天守跡にはお社があったんだ。(上の画像の右。上から2枚目の画像)
そして明治に取り壊された天守閣はこのような姿だったらしい。天守の写る古写真復元計画もあるのだけれど、内部がどうなってたかわからないらしい。見取り図とかあれば話は早いんだけどな〜。
鞘橋を見下ろす。
黒鯛の餌やりポイント&水門の奥には瀬戸内海が見える。大きな船も浮かんでてシュールだ。船のせいで現在と江戸が混じってる風景。何気にレア。何度も書いてるけどお城から海がここまで近い場所はそうないからね。さて暑すぎてへばってきたので帰ります。
おや?何かしら〜?
松ぼっくり収集ぼっくす。ナイスアイデア。来場者に松を集めてもらえるとお掃除が楽ですね。
ここは桜の馬場です。往時はこの倍の広さだったとか。この場所が私の記憶を刺激するのは、今より半世紀ほど昔、銀行員の叔父一家が高松に住まいしてたのですが、ここで従兄の幼稚園の運動会があったからだと思う。
艮櫓(旧太鼓櫓跡)。元は現在の県民ホールの敷地内にあった櫓。完成は延宝5年(1677)。月見櫓と同時期に作られた。昭和40年、当時の所有者の国鉄より高松市が譲り受けて2年かけて移築された。(チラシより)
時刻は10時半。本来ならば復元されたばかりの桜の御門の2階の展示室の公開時間になってたのですが、コロリと忘れて帰っちゃいました〜。私のアホ〜!
何やってたんだろう?暑すぎたんや。当然のようにこの日も猛暑日だったのよ。(おしまい)
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