あられの日記

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太田道灌の所縁の地なの?

2009年11月29日 06時57分54秒 | 墓所巡り
東京&神奈川のお散歩を繰り返すようになったのは、去年の秋から。
目的地は設定して出かけますが、道々ふらふらと寄り道をするのもお散歩の醍醐味です。
と、何度も出合う名前があるんですよ。
その一人が「太田道灌」
ダンナ曰く、地方のスター。全国区の武将には名前が弱い。
でもさ~。今年の直江と比べたら、太田道灌の方が有名だよね。

さて、大山寺を後に、こま参道まで戻って来ました。
行きにはまだ開いてなかった参道の店も、ほぼ営業が始まってます。
道々冷やかしつつ、自分土産も買い込んで来た時に利用したバス停へ。
今度は座席確保出来まして、参道にあった伊勢原観光協会でいただいた伊勢原の観光名所の地図を見る。
う~ん、やっぱりここって…。
実は、来る時に気になるバス停があったんです。
その名前も『道灌塚』!
それってやっぱり「太田道灌」のことだよね?
そうだよね??
つーことで、押してしまいました~
「降りま~す!」
「ええっ!!奥さ~ん」と、道灌塚の場所も知らないのにバスを途中下車してしまいました。
取りあえず観光協会でいただいた地図をたよりにバス停を東へ。
途中で、目的が同じそうな旅人を発見し、場所を確認。
あったのがトップ画像。
田舎道に突然大きな杉の木がにょっきり生えているのですぐにわかりました。
でもこの塚には特別な建築物はない。
ただ、小さな石柱があるだけ。

でもこれが太田道灌のお墓なんですよね?そうですよね??
あれ?
なんか…。ここの塚の造りおかしいよね?
なぜにトップの入口から右手に参道らしきものがあるの?
お~やぁ?
参道の先にあるのは、お寺かな?
もしかして??
と、引かれるように行くと、

『太田道灌公霊廟』と書かれてます。
う~と?
ここはどこだ?
「洞昌院」というお寺でした。
疲れたので、お寺の石で出来たテーブルと椅子にこしかけて自分土産でおやつ。(昼食は大山阿夫利神社下社でいただき済み)

こうして本日のお散歩は終了です。
家から大山阿夫利神社まで思いの外近かったので、散歩も早めに終了しましたが、気になるのは「太田道灌」のこと。
なので、調べました~。
いつものWIKIで。
その前に。
だんなが道灌塚で「太田道灌って家康の家臣?」と尋ねるので
「生きていたらたぶんね。そうだったら、それこそ全国区だったと思うよ」と答えたのですよ。
「へえ。なんで死んだの?」
「う~ん。優秀過ぎて主君の嫉妬を買っちゃって暗殺されたんじゃなかったっけ?」
「…それって今TBSでやっている『JIN-仁』みたいな?」
「ああ。そうそうそんな感じ。あれ?殿誰だっけ?確か聞いたことある有名な感じの名前だったハズ??」と知ったかぶりをしたのですが、私、思いっきり太田道灌の生きていた時代を間違えてました。
だって太田道灌って言えば、江戸の街の基礎を作った人でしょう?
なら戦国時代の人だって思うじゃん!したら、思いっきり違ってましたよ。
ではWIKI調べで。
『道灌の生きた時代:室町時代
生誕と死没:永享4年(1432)-文明18年7月26日(1486.8.25)享年55歳。←これがどんな時代かと言うと、応仁の乱があったのが、1467-1477です。ちなみに、、室町時代は15代足利義昭が織田信長に京都から追放される1573年まで続きました。
へえ~。
マジに太田道灌って室町時代の人だったんだぁ…。
武蔵の国守護代。家系は清和源氏の一家系である摂津源氏の流れを汲み、源頼政の末子で鎌倉幕府門葉となった源広綱の子孫にあたる太田氏。
扇谷上杉家家宰太田道真の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍した。
江戸城を築城した武将として有名である』
へえ~へえ~へえ~~。
そうだ。確か、鎌倉散歩でも彼の名前をみかけたな。
wikiによりますと。
『扇谷上杉家は鎌倉公方を補佐する関東官領上杉氏の一族で、道灌の父は扇谷上杉家の家宰。道灌は鎌倉五山の一つ建長寺で学問を修め、足利学校)栃木県足利市)でも学んだ』
あ、やっぱり~。
あれ?でもなんで、道灌が江戸城作ってるの??
いや、調べましたら道灌が作ったのは江戸城のみならす、岩槻城と川越城も作ってましたよ。
でもこれが道灌の命を危険にさらしてました。
なんつーか関東管領をまかされていたのは上杉氏とは言え、4家あったんですね。
で、家はそれぞれ覇権を執るべく争っていたのです。
そこへ才気煥発な太田道灌が現れた訳だ。
これは上杉他家にすると脅威だった訳です。
なんとか、排除するべく知恵を絞り、妙案をひねり出したのが「道灌の殿への諫言」
つまり「道灌は殿の謀反をたくらんでいます」と。
それに乗せられ、殿は道灌を騙して謀殺したと。
それがここ伊勢原の地だったのですよ。
時は文明18年、道灌は主君上杉定正の招かれ上杉館へ。そして暗殺。道灌は最後に「当方滅亡(扇谷上杉家はこれで滅びる」と叫んだと言います。
確かに、阿呆の諫言に乗せられ、臣下をだまし討ちにした殿に未来はない訳だ。事実、道灌暗殺後、多くの家臣が主君を見限って他家へ移ってます。
やがて、扇谷上杉家は北条早雲の孫の氏康によって滅ぼされました。
まあ、昔の武将は美化されがちで、史実と異なる歴史もあれこれねつ造・勘違いされて残ってます。
道灌の逸話も虚実入り交じって残ってるので、上記のうち全てが本当ではないかもしれません。
でもロマンはあるよね。
そのうちNHKが大河でやってくれないかなあ~?

道灌塚はこの辺りに上杉定正の糟屋館があったから。





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