goo blog サービス終了のお知らせ 

あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

北条政子の墓

2009年02月07日 09時57分16秒 | 墓所巡り
寿福寺の墓地に到着したものの、どこに北条政子の墓があるかわからない。
てっきり「北条政子の墓」はこっちという案内板、ないしは立て札があるものと思ってたのですが…。
墓地をうろうろ。
すると、地面にじかにおいたお手製の矢印発見!
疑いつつ目指すと上の画像のやぐらを発見!
ちゃちな手書きで「北条政子」
これ?
これなの??
本当にこれ??
他にもこの墓地にはやぐらがいくつもありました。
たぶんこれじゃないかな~?
と、投げやりに撮影したものの、当日はよく晴れてまして、現像したら肝心の北条政子のお墓は真っ黒で映ってませんでした。
すみません。
隣にあるのが政子の息子にして、鎌倉幕府3代将軍の源実朝の墓のハズと思いつつ、そっちは手書きの札もなく…。
うう~~ム。
これなら、ダンナさんの源頼朝のお墓の方が豪華だったなあ~。
何事も自分の目で確かめることが大事です。
ああ、諸行無常なり。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

将門の首塚

2008年12月27日 07時36分22秒 | 墓所巡り
今日の更新は皇居周辺の観光スポットです。
まず一つ目は「平将門の首塚」。
これ、いつか紹介しようと画像フォルダに入れてあったのですが、タイミングが難しくて放置。
先日同じく画像フォルダに入れっぱなしの画像を蔵出しで紹介していた時、見つけてしまいました。
場所は地下鉄の大手町駅から大手門へ向かう途中にあります。
場所が確定出来なかったのですが、将門の首塚の案内棒が立ってたのでそれに従いました。
神田明神の氏子さんの手で守られてるっぽい感じでした。
へ~、大事にされてるんだ…。
なんか小説とか映画で度々出てくるスポットが、ビルの谷間にぽっかり残っている東京の不思議。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北条一族の墓

2008年12月19日 09時59分15秒 | 墓所巡り
今日の更新は円覚寺の3回目。ラストです。

12月12日の記事で源頼朝のお墓を紹介しました。
上の画像は北条一族のお墓です。
八代執権北条時宗の廟所。子の九代執権貞時、孫の14代執権高時も合葬されています。
ここを拝観するには円覚寺の入口で支払った拝観料とは別にまた拝観料が必要です。
拝観料100円。
円覚寺には18ケ寺の塔頭(支院)があって、これらは別々のお寺なので、無料公開。非公開。有料公開など、それどれに運営されています。
上の画像は「開基廟」で「佛日庵」と呼ばれています。
廟所とは石碑を建ててその上に木像を祀るお堂を建てたものが正式のお墓で、国に特に業績のあった人にのみ許されたものです。
お堂の下には祀られている北条一族3名の遺骨が納められた石棺があると伝えられています。上にお堂がある限り、確認出来ないそうです。
拝観料を払うと煙の上る線香を1本渡されます。それを大きな線香立てに納め、お堂にお参りすると、中に僧形の男性座像が3体安置されているのが伺い見えます。

すっかり忘れていましたが、そもそも円覚寺はおよそ700年前の蒙古襲来として歴史上有名な文永・弘安の役という空前の国難を迎え、時の執権北条時宗が禅に帰依し、中国から招いた無学祖元を師として作ったお寺です。
蒙古の大群が去った後、二度の戦いで亡くなった両軍の戦没者を弔うことが建立の目的です。
円覚寺建立の2年後に時宗は1284年4月4日に死亡。開基廟はその後作られてますが、上の画像のお堂は江戸時代1811年に改築されたものです。
鎌倉にあるお寺は、蒙古襲来に端を発する寺も多いので、寺を訪問したら由来にも次いでに目を通すとよいですよ。
昔は今よりずっと、災難除けには仏に祈る習慣があったんですね。つーか、それくらいしか出来なかったみたいだなあ。
12月11日の記事で「色とりどりのモミジの綺麗な寺」として、観光の穴場、覚園寺を紹介しましたね。あそこはお寺の境内案内ツアーに参加しないと中に入れない。写真撮影禁止のお寺でした。でも覚園寺にある薬師堂は建物も仏様もそりゃあ立派で、一見の価値がある。でも昔の薬師堂はそもそも病除けとか、病治癒の願掛けの場所だったそうです。つきものの、触れば病が直る仏様もあって、それは触ってもいい仏様だったので、私はもちろん仏様の左足をなでさすってきましたよ。
現代人のは気休めみたいなものですが、現代のような薬とか外科治療とかなかった昔は、庶民、武家を問わず本気で薬師如来に祈願してたんでしょうね。お寺を回ると歴史の本で学ぶよりずっと勉強になることがまだまだあるなあ~。
私の姪っ娘は日本の歴史の勉強が大の苦手で受験で苦労してましたが、こういう歴史の舞台を見るのは大事よ?
歴史の勉強は覚えることが基本だけど、のべつまくなし、丸覚えするのは辛い。それも嫌いな科目なら嫌さが増す。どうせなら楽しんでやらなきゃ。
まっ、受験が切羽詰まってからそれを言っても無駄なんだが。
受験が始まるせめて1~2年前までに、世のお父さんお母さんは歴史の現場を子どもに見せて回るのをお勧めします。
するとなぜそういう戦いが起ったのか?とか、なぜ○○氏と●●氏は敵味方に別れたのか?とか、宗教はどうだった?食料事情は?何月に戦があったのはどういう理由か?など、無理して覚えなくともすんなり理解出来ることもある。
一つ謎が解けると、後はその法則に当てはめると回答が導き出されることも多い。
人間なんでバカだから、大概歴史はその繰り返しなのよ。
歴史の教科書全てを丸覚えなんか出来るかっ!
覚えなきゃならないものと、法則に当てはめるだけのものを分けるんだよ。それが歴史の勉強の極意さ。
歴史にはイレギュラーもあるからね。大概それが変革なんだけど。革命とかルネッサンスとか宗教改革とか後々大きな流れを作るあけぼの的なもの。
歴史は物事を分類して時系列に並べるのよ。枝葉と根幹を見極めるのよ。
って、去年のお正月に日本史、世界史の勉強で泣きそうになっていた姪には切羽詰まった時期には遅過ぎて、寝言にしか聞こえない助言だなあ。
なんか話がだらだらと流れまくりだなあ。やっぱ今日はまだ昨日の疲れが抜けてない模様。
昨日は都内に終日出かけてたのだ。
期間限定情報もゲットしたので早めにお知らせするつもり。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ホントにこれが頼朝の墓!?

2008年12月12日 05時03分34秒 | 墓所巡り
ショボい。ショボ過ぎる
長い急階段をようやく登ってあるのが、コレだけなんである…。
確かに源氏は天下をとった。京の都で一番を張っていた平氏一族をコテンパンにして一掃する程、徹底的に勝った。
でも考えてみれば、鎌倉幕府を開いた源頼朝の一族の天下は短い。鎌倉幕府は「いいくにつくろう」だから1192年に成立。頼朝はその7年後の1199年には落馬して急死している。
後を次いだのは頼朝の子で源頼家。時に18歳。若すぎた。まだまだ天下は治まっておらず、結局失敗し、将軍職を剥奪されて1204年には暗殺され、鎌倉幕府の実権はこれを境に北条氏に移行した。
源氏最後の将軍は頼朝の子・実朝だが、彼は鶴岡八幡宮の大銀杏の前で27歳で暗殺された。その時1219年2月13日。
つまり、頼朝の一族の源氏が天下を取ったのは、30年に満たない。
実朝を殺した公暁も翌年に死亡して、源氏の将軍の家系は断絶した。調べてみると女子方の血筋も出産時に死亡してるので、根絶やしになってるのね。
うきゃ!
家が栄えるのは、代々続く事が必須。
頼朝は、父・義朝が戦に敗れて伊豆に流された流人で元々鎌倉に地盤を持たない。父・義朝の敗戦で彼の一族はこの時既にほぼ消えていて、一族と呼ばれるような勢力も残ってない。
成長してから平氏打倒の兵を上げたのは1180年の頼朝33歳の時。北条一族の豪族の長女政子との婚姻後。
12年後、天下を取ったのは45歳の時。その間残っていた数少ない親族やライバルとして成長した弟の義経も粛正したりするもんだから、頼朝の親族はどんどんゼロに近づいていく。
長らく不遇をかこってた頼朝は、元から財力はなかったハズ。頼朝が行動を起こしたのも、豪族の北条氏一族の首領の娘、政子と結婚して財布が出来てから。その後は戦戦の日々だっただろうから、(例え実際に戦ったのは弟の義経だろうとも)無駄金は使えない。
エジプトのファラオのように、生きているうちからお墓を作るならともかく、日本のお墓は本人が死んだ後、その子どもか妻かが作るのが普通。んで墓を守る人が絶えたら、例え天下を取った人でもこんなショボいお墓になるのかも?
ちなみに、頼朝の妻は名高い北条政子。彼女のお墓はだんなに比べてどうなの?
私はそこへまだ行ってない。
でも調べてみたら、寿福寺にあるらしい。岩を削り横穴を作った「やぐら」に石灯籠のお墓が残っているそうだ。
むむむ??
それも結構地味だよね。
なら北条一族のお墓は?
調べました。
立派です。後日画像を紹介しようじゃないか!

あ、書き忘れてた。
上の画像の石塔は、江戸時代に薩摩藩藩主の島津重豪が建てたんだそうです。なんか、3歳で死亡しているハズの頼朝の長男(政子の子ではない)が実は生きていて、島津氏の祖となったという怪しい伝説があるかららしい。
また、明治時代の廃仏毀釈で、頼朝の墓の前にあった法華堂は壊されたんだって。うう~む。例え過去に天下を取っていても、天皇家から見て敵だったからか?容赦ないなあ。
祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり。って感じ?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

井伊家墓所全体図

2008年12月01日 06時06分38秒 | 墓所巡り
な、なんでこんな所に??
彦根にあるんじゃないの??

Wikiで調べました。豪徳寺…起源と歴史より「寛永10年(1633)彦根藩主伊井直孝が伊井氏の菩提寺として伽藍を創建し整備した。寺院名は直孝の戒名である「久昌院殿豪徳天英居士」による」

つまり、豪徳寺のお寺の名前自体伊井家に由来してたのです。

そのままWikiを読み進めますと、招き猫伝説…「伊井直孝が猫により門内に招き入れられ、雷雨を避け、和尚の法談を聞くことができたことを大いに喜び、後に伊井家菩提所としたという」
だから招き猫なのか~。納得!
あれ??でもそしたらもしかしてコレは「ひこにゃん」の由来なの?

Wikiでひこにゃんを調べる。
なぜ「ネコ」か…「江戸郊外武蔵の国世田谷村の豪徳寺で彦根はん代藩主の伊井直孝が、にわか雨にあって大木の下で雨宿りをした際に、手招きする白描を見て近寄った所、その大木に落雷があった。直孝はこのネコに感謝し、後に豪徳寺を伊井氏の菩提所とした。この白描伝説(いわゆる招き猫発祥伝説)から決定された」
とありました…。び、微妙に違ってるとこもあるけど?
でも、そうなのね。この由来があったからひこにゃんで白いのね。
友人がひこにゃんにハマって本まで自費出版したけど、私、まだ本物のひこにゃんを見た事なかったけど。まさか、発祥地を私が先に見ることになるとは…。しかもうっかりだ!!!
な、なんかヘンな電波受信してないだろうな、私…。

ところで、この豪徳寺はまるっきり商売する気がないようで。
紅葉を見に結構な数の人が訪れてるのに、売店がないんだよ。つーか、お寺のお守りとか招き猫を売ってる所がない。
そんなはずは…。
と探したら、奥まった所にありました。でも照明がついてません。覗き込んだけど、誰もいない感じ。
ヤル気がないのか、それとも檀家がリッチでお布施に不自由してないのか…。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

井伊直弼のお墓

2008年12月01日 06時03分37秒 | 墓所巡り
歴史上有名な1860年の桜田門外の変(安政7年3月)で暗殺された大老井伊直弼のお墓です。
直弼の遺体もここに埋葬されたそうです。
ちなみに井伊直弼のお墓は東京都の史跡に指定されてます。
彦根藩主伊井家墓所全体は国指定史跡です。
墓所の北側の一角には、早世した伊井家子息子女らの墓石に混じって、江戸で亡くなった藩士の墓もある。
直弼、藩士や藩民にはいい藩主だったのかもね。今でもちゃんとお花が供えられてる。安政の大獄とか強引な政策を取った人ってイメージが強すぎたかな~?
そのへんどうなの?彦根のお城に行ったことのある人のご意見を聞きたいわ~。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

井伊家の墓所近景

2008年12月01日 06時01分26秒 | 墓所巡り
井伊直弼の墓から。
手前から11代道中正室の墓。
2つ目は12代直亮の正室の墓。
一つ置いて、4つ目が5代目直通正室。
一つ置いて、6つ目が7代直惟正室の墓。

Wikiで彦根藩を調べると、歴代藩主の名前もズラズラっと出て来ます。でも豪徳寺の敷地に立っている看板となぜか微妙に●代目と書かれてあるのと名前がズレてるのね。どちらを取るか考えましたが、豪徳寺にあるお墓の紹介なので、Wikiではなく豪徳寺の看板を選択しました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする