数日前、樋口季一郎氏のことを知りました。たぶん、フィンランド関係を調べていた時に彼の名が出てきた調べていたことからだったと思います。
(彼はポーランドのタデウシュ・ロメルとも顔見知りであったのではないか、と思うし、河豚計画にかかわっていたはず。
河豚計画 - Wikipedia)
【正論】杉原千畝は有名なのに…樋口季一郎中将はなぜ忘却されたのか 新潟県立大学教授・袴田茂樹(1/4ページ) - 産経ニュース (sankei.com)
抜粋:
当時、日本はナチスドイツと防共協定を結んでおり、ナチスに追われたユダヤ人を満州に受け入れることは、日本の外務省、陸軍省、満州の関東軍にも反対論が強かった。しかし緊急の人道問題だと理解した樋口は馘(くび)を覚悟で、松岡洋右満鉄総裁に直談判し、2日後にはユダヤ難民を乗せた特別列車がハルビンに到着した。
案の定、独のリッベントロップ外相から外務省にこの件に関して強い抗議が来た。樋口の独断行為を問題にした関東軍の東条英機参謀長は、新京の軍司令部に樋口を呼び出した。しかし強い決意の樋口は、軍の「五族協和」「八紘一宇」の理念を逆手にとり、日露戦争時のユダヤ人の対日支援に対する明治天皇の感謝の言葉なども引き、ナチスのユダヤ人弾圧に追随するのはナンセンスだと、人道的対応の正しさを強く主張した。
(中略)
戦後、ソ連極東軍は米占領下の札幌にいた樋口を戦犯としてソ連に引き渡すよう要求した。その理由は、樋口がハルビン特務機関長だっただけでなく、敗戦時には札幌の北部司令官であり、樺太や千島列島最北の占守(しゅむしゅ)島でのソ連軍との戦闘(占守島でソ連軍は苦戦した)の総司令官だったからだ。
しかし、マッカーサー総司令部は樋口の引き渡しを拒否した。後で判明したことだが、ニューヨークに総本部を置く世界ユダヤ協会が、大恩人の樋口を守るために米国防総省を動かしたのである。
今日のYahooニュースには、
樋口季一郎氏が、「ソ連から北海道を救った英雄」というニュアンスの記事が載っていました。
終戦後、北海道はロシア領になっていたかもしれない? 窮地を救った「知られざる英雄」とは(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース
(前略)
「生前、祖父は戦争の話はほとんどしませんでした」と語るのは、バッハの研究で知られる音楽学者で、明治学院大学名誉教授の樋口隆一氏(76)だ。 淡路島で生まれた彼の祖父、樋口季一郎は、陸軍の情報将校としてロシア語を学び、ポーランドや満洲などに駐在。終戦時の階級は中将で、北海道・樺太・千島を管轄する第5方面軍司令官だった。 1938年、ナチスの迫害からシベリア鉄道で満洲に逃れてきたユダヤ人たちがいた。現地当局はドイツとの関係を考慮して入国を拒否するが、ハルビン特務機関長だった樋口が「これは人道問題だ」と主張しユダヤ人の入境を認めさせた。後に〈ヒグチ・ルート〉と呼ばれるこの脱出路により、最大2万人のユダヤ人が命を救われたといわれる。が、樋口が英雄と呼ばれる理由はそれだけではない。
「戦わなければロシア領にされていた」
「祖父は、北海道をソ連から守ったのです」(隆一氏) 日本が降伏を表明した後の45年8月17日、千島列島の最北端・占守(しゅむしゅ)島にソ連軍が上陸。日ソ中立条約に違反した卑劣な侵略行為を前に、樋口司令官は「自衛のため断固反撃せよ」と命じる。戦史に詳しい陸上自衛隊OBいわく、 「占守島には満洲から移駐した戦車第11連隊をはじめ、精強な部隊が残っていた。彼らの徹底抗戦に手を焼いたソ連軍は、とうとう北海道の占領を諦めました」 樋口は70年に82歳で亡くなった。ユダヤ人を救った日本人といえば、駐リトアニア領事代理だった杉原千畝(ちうね)が有名だが、樋口の名は一般にはあまり知られていない。先の陸自OBは、 「杉原さんは外交官ですが、樋口中将は軍人。敗戦国日本では“軍人=悪人”でしたから」と嘆く。 その風潮も、今後は少し変わるかもしれない。隆一氏が語る。 「占守島で戦わなければ、北海道は今のウクライナのように蹂躙(じゅうりん)され、ロシア領にされていたはず」 樋口司令官ら軍人たちの必死の戦いがなければ、北海道がソ連の領土にされていた可能性は十分あった。そのことは、これを機に日本人の多くが知っておいてよい歴史だろう。 日本で軍服姿の軍人の全身像が建立されるのは、戦後初だという。
日本を守ろうとした軍人、北海道を救う王とした軍人、季一郎氏以外にもいて、敗戦国といくことで、処刑された人を含めたくさんいたはず。
「樋口季一郎の軍服を着た全身像」を建てる?
日本を戦争に巻き込みたい勢力があるように思えてなりません。
参考:
「ユーラシア戦争」と言う単語を使った記事からの連想・ロシアの極東にあるユダヤ人自治区 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)