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アイヌ研究家のポーランド人ブロニスワフ・ピウスツキ・アイヌの遺骨を盗んで返却しなかった北海道大学

2022年06月27日 | 人物

プーチン発言「アイヌはロシアの先住民族である」は、「北海道はロシア固有の領土」と主張する前触れだ(プレジデントオンライン) - Yahoo!ニュース

プーチン大統領も日本も、アイヌ人を巻き込むのはやめてほしいです。

さて、アイヌ人といえば、杉原千畝とともにユダヤ人を救済したポーランド外交官のことを調べていた時、アイヌ研究者、そしてアイヌの娘と結婚し、アイヌ人たちのために尽くしたポーランド人(一時期ロシア籍)のことを知りました※。

ブロニスワフ・ピウスツキ - Wikipedia

リトアニア首都ヴィリニュスから北東へ60km離れたシュヴェンチョニース(Švenčionys, ポーランド語: Święciany, ベラルーシ語: Свянцяны, ロシア語: Свенчаны)郡のズウフ(Zalavas, ポーランド語: Zułów, ベラルーシ語: Вёска Зулаў, Зулава, ロシア語: Зулов)(当時ロシア帝国に属していた)で没落したポーランド貴族の家に生まれる。ヴィリニュスで高等学校を中退。

1886年、ペテルブルク大学の法学部に入学。1887年、アレクサンドル3世暗殺計画に連座して懲役15年の判決を受け、サハリン(樺太)へ流刑となる。(この時の処刑者には首謀者にしてウラジーミル・レーニンの兄アレクサンドル・ウリヤーノフがいた。)

サハリンへ着くと、初めは大工として働き始めたが、その後、原住民の子供たちの「識字学校」を作ってロシア語や算術・算盤教育を始める。「識字学校」の教師の中には、日本と樺太アイヌの間に生まれた千徳太郎治がいた。その後警察の事務局員となり、ニヴフ(ギリヤーク)との交流が増えるようになる。


ブロニスワフの弟で後にポーランド第二共和国初代国家元首となったユゼフ・ピウスツキ
1891年、同じく流刑されていた民族学者のレフ・シュテンベルクと知り合う。その後、ニヴフ文化研究及びニヴフ語辞書作成に没頭。

1896年5月14日、アレクサンドル3世の死後に行われた大赦により、懲役刑が15年から10年に減刑される。この年になるとアイヌとも接触するようになり、資料収集を行う。12月6日にはアレクサンドロフスキー岬で開館された博物館に資料を提供。翌1897年に刑期満了。

1899年にはウラジオストクへ渡り、翌1900年のパリ万国博覧会用の資料を提供する。1902年にアイヌとウィルタ(オロッコ)の調査のため樺太へ戻り、写真機と蝋管蓄音機を携えて資料収集を行う。同年農民身分となる。年末には、樺太南部にある集落・アイ(日本名:栄浜村相浜)で村長バフンケの姪チュフサンマ[2]と結婚し、一男[2]女[3]をもうける。二人の子どもは第二次世界大戦後、北海道に移住した。彼らの子孫が現在も日本で生活しており、長男木村助造(1903年-1971年)の子孫はピウスツキ家唯一の男系子孫である。チュフサンマは晩年失明し、1936年1月に樺太で死去した。

その後もロシア語などをアイヌに教える一方でアイヌ、ウィルタ、ツングース族などの資料収集を行っていたが、日露戦争勃発後の1905年、バフンケに反対されたため家族を止む無く残して日本へ渡る。

1905年4月12日、「樺太アイヌ統治規定草案」(沿海地方国家歴史図書館蔵[注釈 1])を作成。

日本では亡命ロシア人による反皇帝組織を支援したり、二葉亭四迷、横山源之助、上田将、大隈重信、鳥居龍蔵、坪井正五郎、宮崎民蔵、片山潜らと交流。同年にアメリカ経由でポーランドへ戻る[4]。帰国後は、ヨーロッパ各地を転々としながら弟ユゼフらと文通を行い、亡命ポーランド人らと交流してポーランドの独立運動に携わる。その一方でロンドンの日英博覧会に出展された沙流アイヌから50話を採話する[5]など、アイヌ研究を続けた[6]。

1918年、第一次世界大戦終結を前にしてパリでセーヌ川に身を投げて自殺。遺書は無かったために動機は不明である。

 

日本ではこのピウスツキのアイヌ人の妻のおじ(村長で結婚を取り持った人)の人骨の遺骨まで盗掘。返還したのが何と、2018年でした。

北大人骨事件 - Wikipedia

抜粋:

1939年(昭和14年)から1956年(昭和31年)にかけ、北海道大学(北海道帝国大学)は北海道・千島・樺太の各地より研究の名目で1004体のアイヌの遺骨を収集し、時には遺族に無断でアイヌ民衆を警察により排除しての発掘が行われていたこともあった。盗掘された遺骨には、イザベラ・バードやジョン・バチェラーにアイヌ文化を伝授した平村ペンリウクや、ポーランド出身の学者、ブロニスワフ・ピウスツキの妻である樺太アイヌ女性・チュフサンマのおじ・バフンケ(日本名・木村愛吉)など、地元の名士として尊崇されていたアイヌのものも含まれる。


樺太東海岸のアイ集落の長・バフンケ(日本語名・木村愛吉 1855 - 1919?)。彼の遺骨は1936年に盗掘され北海道帝国大学に保管されていたが、2018年7月に子孫に返還された[2]

 

第二次世界大戦のポーランドと日本の関係 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ポーランド外交官ダデウシュ・ロメルと彼が個人秘書をしていたロマン・ドモフスキ - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

欧州とユダヤ人-4(ナチスドイツとレヒとポーランドのユゼフ・ピウルスキ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

参考:

スペインの友人の『エスキモー』『イヌイット』についての説明から見えて来たもの - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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