毎日のように、新着映画をチェックするようになったU-NEXT。
昨日目についたのが、ジャン・ポール・ベルモンドの恋人だった時価がある、ウルスラ・アンドレス、ラウラ・アントネッリ、エマニュエル婦人のシルビア・クリステル、そしてイタリアで他の3者と比べて格が上と思われるモニカ・ヴィッティが2話ずつ出演する8話のオムニバス映画『ピンクのルージュ』。
3分で映画『ピンクのルージュ』を語れるようになるネタバレあらすじ - 【映画で語ろう】カムシネマ★3分で語れるようになるポイント【ネタバレあらすじ】 (kamuin.com)
ピンクのルージュ | ★ZOETROPE★映画とインテリア (ameblo.jp)
Tigers in Lipstick - Wikipedia
お色気コメディというこの8作で、まともに見たのはモニカ・ヴィッティの2作(2話、6話)と、ウルスラ・アンドレスの寸劇のようなほうの一作(7話)。
この作品で胸や下着姿を見せるのがモニカ・ヴィッティ以外の3人で、この3人は娼婦なみ扱い扱い。
米国TVシリーズ『セックス・アンド・ザ・シティ』が、主役でプロデューサーも兼ねたサラ・ジェシカ・パーカーには胸を出す場面や過激シーンはないのに、他3人(キム・キャトラル、シンシア・ニクソン、クリスティン・デイヴィス)にはそういうシーンをさせていたのにも似ています。
抜粋:
1931年11月3日、ローマでMaria Luisa Ceciarelliとして生まれた。10代の頃からアマチュア劇団に参加し、ローマの演劇学校で学んだ。その後、舞台女優としてヨーロッパを回った。
1954年に映画デビュー。1957年、ミケランジェロ・アントニオーニの劇団に参加し、『さすらい』に端役で出演した。以後、『情事』(1960年)、『夜』(1961年)、『太陽はひとりぼっち』(1962年)、『赤い砂漠』(1964年)とアントニオーニ監督作品の常連となり、世界的に知られるようになった。
1974年、『Polvere di stelle』でダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞女優賞を受賞した。1995年には第52回ヴェネツィア国際映画祭で栄誉金獅子賞を受賞した。
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外交官の父ロルフ・アンドレス、母アンナはともにドイツ人。5人の姉弟がある。16歳の時、美術留学生としてパリへ渡る。翌年、ローマへの旅行中に映画関係者にスカウトされ、1954年の『Le Avventure Di Giacomo Casanova 』でデビュー。
イタリアで何本かの低予算映画に出演した後、ハリウッドへ招かれたが、当初は英語が不自由でしばらくは役がつかないまま、1957年に俳優のジョン・デレクと結婚した。
グラマーなスタイルと美貌を買われ、彼女の声のみ吹き替えで1962年に『007 ドクター・ノオ』の初代ボンドガールのハニー・ライダー役に抜擢されてから人気が出た[1]。1964年度の「Most Promising Newcomer - Female Golden Globe」に選ばれ、『PLAYBOY』誌でヌードになるなど、セックス・シンボルとしての地位を確立した。
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両親はオランダ・ユトレヒトで宿屋を経営していた[4][5]。妹と弟が1人ずついる。その宿屋に11年間住んだ[4]。2006年にフランスで出版された自叙伝「Nue」(英語の「Nude」) によると9歳の時に宿泊客にレイプされた。両親は仕事に忙しく、子供に酒を与えて寝かしつけていた。自叙伝ではドラッグやアルコールに溺れた生活や、歳の離れた男性に惹かれてしまう性癖が記されている。さらには11歳の頃からヘビースモーカーであった。12歳から15歳まで宗教関係の寄宿学校で学ぶ[4]。14歳の時に父親が家を出ていき両親は離婚。17歳でモデルの仕事を始めた。アムステルダムの大学へ入ったが中退[4]。ウェイトレスやファッションモデル、秘書など20種類に近い職業を転々[4]。1973年にはミスコンテスト「Miss TV Europe」で優勝している。IQが165あり[6]、小学校では4学年を飛び級という経験をしている。言葉は、オランダ語、英語、フランス語、ドイツ語とイタリア語を話せるという、マルチリンガルな才能を持つ。 どうしても映画女優になりたくて、クロード・ルルーシュに売り込みに行ったり[4]、オランダのショウビジネス界に影響力を持つピム・デ・パラに売り込み[4]、パラの紹介で3本のオランダ映画に出演し、女優の道を歩き始めた[4]。
欧州映画界とブルジョワ-10(非ブルジョア階級のエステラ・ブランとラウラ・アントネッリ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
wikipediaの載っているプロフィールも、「公式プロフィール」に過ぎず、それこそディオールのモデルや女優などがマダムクロードのところで教育を受け、高級売春婦になったところから人脈を広げ(年長の大物の愛人になったり、まったく引退して元の客の妻になったり)、ステップを上った人達も当時はいたでしょう。
モニカ・ヴィッティ以外の3人がそうであったとは言いませんが、1979年の作品で、アラフォーになってもヌードを披露するだけの女優になるとは、悲しく感じます。
そもそも、ウルスラ・アンドレスとラウラ・アントネッリ、ジャン・ポール・ベルモンドの元愛人たちが出演って・・・。
モニカ・ヴィッティ編2本のうち一本(2話)に、ロベルト・ベニーニが俳優として出演していました。
欧州映画界とブルジョワ-29(ロベルト・ベニーニの背景) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
参考:
スイスのInstitute Le Rosey-4(『エマニエル夫人』とフランス人外交官) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
アラン・ドロン追悼・フランス映画界の戦後-7(マルコヴィッチ事件とマダム・クロード) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)