新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

南東北ドライブ旅行記 #1-5

2017-06-21 23:15:01 | 旅行記

「南東北ドライブ旅行記 #1-4」のつづきです。

喜多方での昼食#1 & プチ観光を終えた私は駐車場に戻り、会津若松へ向かいました。

会津若松ICから喜多方まではR121「下道(したみち)」を使いましたが、戻りは途中から私のクルマのナビには一部しか載っていなかった会津縦貫道を使いました。
無料なのが申しわけないほど、快適かつ早く会津若松IC近くまで戻り、そこからさざえ堂白虎隊の墓所のある飯盛山へ行き、その後、福島県立博物館に行ったわけですが、このルートは下図のとおりでした。
青い線会津若松IC⇒喜多方のルート、赤い線喜多方⇒飯盛山⇒福島県立博物館のルートを示しています。

5月1日午後のルートマップ

ナビに従ってクルマを走らせると、迷うことなく飯盛山の麓に到着しました。

ガラガラの駐車場にクルマを駐め、いざ

だったんだすが、あれぇ~凄い登り

そういえば、ブラタモリではエスカレーター(スロープコンベア)で昇っていましたっけ…
でもお金を払って昇るのはなぁ~ と思っていたところ、白虎隊記念館の前に案内図がありまして、それによると、 

「楽な参拝順路(6分)」というのがあるではありませんか
なぁ~んだ、これで行こう

「楽な参拝順路」を進んで行きますと、あれま、「厳島神社」

厳島神社といえば、まず頭に浮かぶのは、安芸・宮島にある世界文化遺産厳島神社ですが、宮島の厳島神社と関係があるのでしょうか?

傍らにあった説明板によれば、

当社は宗像三女神の一にして古くから人々の信仰が厚かった、主神は市杵島姫命である。
会津の領主芦名直盛公の時代、石塚、石部、堂家の三家によって社殿が建てられたるものとして時は永徳年間のことである。
別当正宗寺である、降って元禄十三年には会津藩主松平正容公は御神像及び土地を寄進され、明治の初期厳島神社と改めたこの山を飯盛山と呼ぶ、別名の辯天山は、この神社にあやかるものである。

と、なんとも下手くそな文章で、よく判らないのですが、少なくとも宮島の厳島神社よりも、宗像大社(市杵島姫神[いちきしまひめのかみ]をお祀りする宗像大社辺津宮の訪問記こちら)との関係が深そうです。

Wikipediaによれば、

厳島神社(いつくしまじんじゃ)は福島県会津若松市の神社。かつては宗像神社といい、永徳年間に地元の豪族、石塚、石部、堂家の三家によって建てられた。厳島神社の名は1868年(明治元年)の神仏分離令に際して改名されたものである。別当は正宗寺。旧社格は郷社。
祭神の市杵島姫命弁才天習合していた事から、神社のある飯盛山は別名を辯天山という。1700年(元禄13年)には会津藩主松平正容によって、飯盛山周辺の580間が寄進され鳥居や仁王門、青銅の大仏も建立された。明治期に大仏は市内の七日町にある阿弥陀寺へ移されたが、鳥居は今も残る。 また1796年(寛政8年)旧正宗寺三匝堂が建てられ、境内に現存する。

だそうで、説明板よりこちらの説明の方が判りやすい
近くに弁才天の石像がある理由も理解できます。

でも、なぜ、明治期になって(また出たよぉ~、神仏分離令)「厳島神社」改名されたのかは判りません。

ただ、会津バスしゃもじを奉納していることからして、宮島の厳島神社無関係であるとは考えられませんな
もっとも、宮島の厳島神社宗像三女神をお祀りしていることからすれば、社名は変わっても、本質は維持されているとも言えるわけで…

あ、そうそう、上に転記した会津・厳島神社についてのWikipediaの記述の中に、「また1796年(寛政8年)に旧正宗寺三匝堂が建てられ、境内に現存する。」とありますが、この「旧正宗寺三匝堂」というのが、かの「さざえ堂」です。

「さざえ堂」のことは「#1-6」で書くことにします。

つづき:2017/06/22 南東北ドライブ旅行記 #1-6

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