「(秋田)県南小旅行記(その9)」のつづきです。
秋田市から同行の友人はダイジェストでちょろっと書いたように、秋田の県南勤務経験者で、県南に土地鑑があります。
その友人から誘われて向かったのが、横手市増田、旧平鹿郡増田町です。
「内蔵(うちぐら)を観よう」というお誘いで、建物好きの私としては、思案もする間もなく同意して増田に向かいました。
「道の駅うご 端縫いの里」からは30分ほどで増田に到着し、難なく無料の公営駐車場にクルマを停めることができました。
ところで、私が、増田に内蔵(うちぐら)なるものが存在していることを知ったのは古い話ではありません。
ちょうど5年前、THE TOUR OF MISIA JAPAN SOULQUESTの大阪公演(旅行記はこちら)に参戦するべく飛行機に乗ったとき、機内誌に載っていた「歴史の足跡、『内蔵』探訪」という記事を読んで、私にとっては「おいしいリンゴの産地」のイメージしかなかった増田に、内蔵(うちぐら)という超魅力的な建物が残っていることを知ったのですよ
で、私たちがクルマを停めた駐車場は「増田の街並み案内所 ほたる」に隣接しておりまして、
その隣には、白壁の土蔵が立っていて、その中には、、、、
土蔵というものに対する私の認識を根底から覆す光景です
傍らの説明板を抜粋しますと、
旧杏華堂石田医院座敷蔵
(座敷蔵 大正15年建築 桁行9.10m、梁間5.46m)
石田家は享保年間に石田久左右衛門の息子が医師となり開業したの始まりとされ、昭和末まで9代続いた名門の医家である。昭和末には医院を廃業、診療棟や主屋は解体され、現在では座敷蔵だけが残されている。
内転びのある二階建て切妻造りと比較的小ぶりな土蔵ではあるが、開口部を主屋と繋がっていた北側妻部と庭に面した東側平部の二箇所に設けた、従来の土蔵の形態とは一味違う平面配置となっている。(以下略)
だそうですが、どうして土蔵の中に座敷があるのか と、私は混乱気味
この座敷、とても土蔵の中にあるとは思えない(窓はないけれど)、普通のお座敷です
増田の内蔵というのは、
往時、商店主は主屋の奥に鞘で囲った土蔵を建てた
というものであることは知っていたものの、その使い方までは頭に残っていませんでした。
いったい、何なんだ、内蔵とは
と盛り上がって、内蔵の見物を開始 なんですが、見学できる内蔵は、増田のメインストリート「中七日町通り」に沿って、何軒もあります。
どの内蔵を拝見するのが最も効果的かつ効率的なのか、私には皆目見当がつきませんし、県南に土地鑑があるわが友人も同じ…
二人で話し合って決めた「方針」は、
予約が必要なところは除外
無料のところを優先
気の趣くままに拝見する
というもの。
ところが、「無料」のところは、生活感が強くて、ちょいと入りづらい…
これではラチが開きませんので、「気の趣くまま」に最初に入ったのは、「佐藤三十郎家」でした。
外観は、商店だった(らしき)頃の風情を白塗りの看板に感じながらも、フツーの古い商家なんですが、「通り」と呼ばれる細長い土間を進んで行くと、
ドーン と土蔵が登場
そして、入口の傍らには、文化庁が発行した「登録有形文化財」のプレートが…
そしてそして、内蔵の中は、入口側の手前半分が物置になっていて、
奥には、やはりお座敷がありました。
なんでも「佐藤三十郎家」の内蔵は、
当家の座敷蔵は、梁間7.3m、桁行12.7mとこの地区では最大級の梁間を誇る大型の座敷蔵です。正面妻部全体を黒漆喰で仕上げ、側面と裏面は開口部のみ黒漆喰、他は白漆喰で仕上げられています。現在は昭和初期に蔵前の一角が山衆(人夫)の控え場所として使われたため、暖をとる焚き火によって折角の漆喰が剥離してしまっています。
この蔵は当初より座敷蔵として造られたため、使用されている部材も大きく、洗練されたものとなっています。蔵の前半分は1尺5寸の栗板によって床が張られ、奥には12畳半と7畳半の座敷が設けられ、座敷には天袋と違い棚を備えた本格的な床の間が据付られています。また両壁は、5寸角の無節の柱が1尺間隔と狭い間隔で配されて堅固な造りになっており、柱間は漆喰によって貫を塗り込め、磨き仕上げが施されています。増田地区における明治初期の座敷蔵の指標となる貴重な土蔵です。
というもので(お座敷の写真はありませぬ)、裏庭に出る出入口の上にある障子のおしゃれなこと
う~む、侮れず、増田の内蔵…
行き当たりばったりで入ったにもかかわらず、のっけからツボに入ったようでした
つづき:2016/09/09 (秋田)県南小旅行記(その11)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます