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三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

福沢諭吉『脱亜論』

2021年04月08日 | 戦争

永江朗『私は本屋が好きでした』の続きとして福沢諭吉『脱亜論』について書こうと思ってて忘れてました。
というのが、嫌韓嫌中本の元祖は『脱亜論』(『時事新報』明治18年3月16日)ではないかと思うからです。

『脱亜論』の現代語訳はネットで読むことができます。
https://ja.wikisource.org/wiki/%E8%84%B1%E4%BA%9C%E8%AB%96
後半にこんな主張がなされています。

わが日本の国土はアジアの東端に位置するのであるが、国民の精神は既にアジアの旧習を脱し、西洋の文明に移っている。しかしここに不幸なのは、隣国があり、その一を支那といい、一を朝鮮という。(略)
人種の由来が特別なのか、または同様の政治・宗教・風俗のなかにいながら、遺伝した教育に違うものがあるためか、日・支・韓の三国を並べれば、日本に比べれば支那・韓国はよほど似ているのである。この二国の者たちは、自分の身の上についても、また自分の国に関しても、改革や進歩の道を知らない。(略)
その古くさい慣習にしがみつくありさまは、百千年の昔とおなじである。現在の、文明日に日に新たな活劇の場に、教育を論じれば儒教主義といい、学校で教えるべきは仁義礼智といい、一から十まで外見の虚飾ばかりにこだわり、実際においては真理や原則をわきまえることがない。そればかりか、道徳さえ地を掃いたように消えはてて残酷破廉恥を極め、なお傲然として自省の念など持たない者のようだ。(略)
今の支那朝鮮はわが日本のために髪一本ほどの役にも立たない。のみならず、西洋文明人の眼から見れば、三国が地理的に近接しているため、時には三国を同一視し、支那・韓国の評価で、わが日本を判断するということもありえるのだ。例えば、支那、朝鮮の政府が昔どおり専制で、法律は信頼できなければ、西洋の人は、日本もまた無法律の国かと疑うだろう。支那、朝鮮の人が迷信深く、科学の何かを知らなければ、西洋の学者は日本もまた陰陽五行の国かと思うに違いない。支那人が卑屈で恥を知らなければ、日本人の義侠もその影に隠れ、朝鮮国に残酷な刑罰があれば、日本人もまた無情と推量されるのだ。事例をかぞえれば、枚挙にいとまがない。喩えるならば、軒を並べたある村や町内の者たちが、愚かで無法、しかも残忍で無情なときは、たまたまその町村内の、ある家の人が正当に振るまおうと注意しても、他人の悪行に隠れて埋没するようなものだ。(略)
支那、朝鮮に接する方法も、隣国だからと特別の配慮をすることなく、まさに西洋人がこれに接するように処置すべきである。悪友と親しく交わる者も、また悪名を免れない。筆者は心の中で、東アジアの悪友を謝絶するものである。


日本が初めて外国と戦争をしたのは日清戦争(明治27年8月1日~明治28年4月17日)です。
甲午農民戦争(東学農民戦争)をきっかけに日本は6月2日に朝鮮に軍隊派遣を決定、7月23日に王宮を占拠、25日に清国軍と豊島沖海戦、8月1日に宣戦布告をします。

福沢諭吉は朝鮮の内政問題、日清戦争などに対する強硬論を「時事新報」に書いています。
記事の題名をいくつかあげてみます。

6月5日「速かに出兵す可し」
6月9日「支那人の大風呂敷」
6月19日「日本兵容易に撤兵す可らず」
7月3日「大使を清国に派遣するの必要なし」
7月4日「兵力を用るの必要」
7月20日「牙山の支那兵を一掃す可し」
7月27日「支那朝鮮の両国に向て直に戦を開く可し」
8月1日「満清政府の滅亡遠きに非ず」
8月5日「直に北京を衝く可し」
8月9日「必ずしも北京の占領に限らず」
8月11日「取り敢へず満州の三省を略す可し」

「日本臣民の覚悟」(明治27年8月28日)

今度の戦争は根本より性質を殊にし、日本国中一人も残らず一身同体の味方にして、目差す敵は支那国なり。我国中の兄弟姉妹四千万の者は同心協力してあらん限りの忠義を尽し、外に在る軍人は勇気を奮て戦ひ、内に留主する吾々は先づ身分相応の義捐金するなど差向きの勤めなる可けれど、事切迫に至れば財産を挙げて之を擲つは勿論、老少の別なく切死して人の種の尽きるまでも戦ふの覚悟を以て遂に敵国を降伏せしめざる可らず。


9月15日「半途にして講和の機会を得せしむ可らず」
9月23日「支那の大なるは恐るゝに足らず」
12月14日「旅順の殺戮の流言」
明治28年
1月9日「戦勝の大利益」
1月17日「容易に和す可らず」
3月12日「償金は何十億にても苦しからず」
3月29日「平和の機会未だ熟せず」

福沢諭吉は明治34年に亡くなっています。
明治37年に起きた日露戦争、韓国併合(明治43年)、さらには満州事変(昭和6年)からの中国侵略、対米戦争も、それ行けどんどんと対外強硬論を訴えたでしょうか。

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本願寺の戦争協力

2018年01月31日 | 戦争

某氏より「非戦平和を願う真宗門徒の会会報 5号」をいただきました。
西本願寺の方が何人か寄稿してます。
本願寺の戦争協力について知らないことがたくさんあるもんだと、あらためて思いました。

藤本信隆「門信徒との課題の共有」

本願寺教団の戦争協力はアジア太平洋戦争からではない。
西南戦争に始まり、日清戦争を経て、日露戦争でほぼ形ができ上がった。
根拠となる教学は西本願寺門主の大谷光尊(1850~1903)の「後の世は 弥陀の教えに まかせつゝ いのちをやすく 君にさゝげよ」という真俗二諦だった。
死んだらのことは阿弥陀仏にまかせ、現世は国家の方針に従うという生き方である。

松橋哲成「浄土真宗と教育勅語」

真俗二諦とは、近代の本願寺教団が天皇絶対主義体制に順応するために生み出した論理である。
浄土往生のための信心と、日常生活のための世俗倫理を二分化させ、この世はその場の状況に合わせるという生き方であり、俗諦の具体的内容こそが教育勅語だった。
教育勅語に対する方針は、天皇陛下の意を一日中、心にとどめ、これを永遠に伝えることと規定した。(1891年)

大谷派の暁烏敏は「お勅語を飛行機で運んでいこう。お勅語を軍艦で運んでいこう。大砲でお勅語を打ち込もう。重爆でお勅語をひろめよう」(『臣民道を行く』)と書いている。


藤本信隆「門信徒との課題の共有」

大谷光瑞(1876~1948)は「出征軍人の門徒に告ぐ」という小冊子と懐中名号を約44万人の将兵に贈呈した。

小冊子の内容は、平和を求めるためという戦争の正当性、命の無常と意義ある戦死、阿弥陀の救いがあるという安心、天皇の心の理解と報恩の実践などである。

正義の戦争では殺生戒を犯したことにはならない。
戦闘中に恐怖心が起きても、阿弥陀仏の慈悲を思い出して念仏を称えたら、戦死しても極楽往生できる。
戦死は天皇のために命を捧げ、靖国神社に祀られる名誉であり、身に余ることである。

旅順攻撃の時、称名念仏しながら突撃することがあり、石川、富山、福井の連隊で構成された第九師団の中には、多くの戦死者を出して「念仏大隊」と賞賛された大隊があった。


松林英水「戦時中の仏教界のスタンス」

日本の仏教界では、各教団が組織を挙げて報国運動をおこなった。
しかし、中国の仏教界では、全国の仏教徒に抗日救国を訴え、抗日運動を展開した。

中心となった圓瑛法師は1931年、9.18事件(満州事変)の時に日本の仏教界へ「日本仏教界への書」というアピールを出し、戦争停止の呼びかけを行なった。


満州事変での呼びかけは次のような内容だった。

わが釈迦牟尼仏は慈悲平等をもって世を救うことを願われ、われら仏教徒は共にこの仏の素懐を体し、仏の教えを宣揚すべきであります。日本は仏教を信奉する国であり、国際的に慈悲平等の精神を実践し、東アジアに平和をもたらし、世界平和をさらに進めるよう尽力すべきであります。しかしながら、日本の軍隊が侵略政策をもって中国領土を占領し、中国人を惨殺するとはどういうことでありましょうか。これは日本政府の主張でもなく、日本人の意志でもありますまい。軍を掌握し、私利を図り、国家の名誉を顧みない少数の野心家たちの犠牲になったのであります。皆様が出広大舌相して共に無畏の精神を奮って全国民を喚醒せしむるよう努力し、日本政府に陳情書を提出して、中国における軍閥の暴行をやめさせ、国連の事案を遵守し、即日撤退されるよう切に望むものであります。


1937年の7.7事件(蘆溝橋事件)の時にも、圓瑛法師は「日本仏教徒に告げる」を発表している。

これに対して日本の明和会(仏教各派の代表者や有識者によって組織されていた)が「全支那仏教徒に誨(おし)ふ」という反論の文書を出し、このたびの戦争を「道の戦」であるとし、「真に人道正義国権擁護の為に億兆一心の生命威力を発揮するに至った」ものであると唱えた。

そして、「東亜永遠の平和を確立せむが為に仏教の大慈悲発して摂受となり又折伏となる。この已むに已むを得ざるの大悲折伏一殺多生はこれ大乗仏教の厳粛に容認する処である」と断じている。
さらには「皇国日本」の行う戦争を仏教の名において支持した。

太虚法師の日本仏教界への呼びかけは日本の敗戦まで計9回に及んでいる。

満州事変の時の呼びかけには、台湾・朝鮮・日本の仏教徒が速やかに連合し、日本の軍閥・政客の非法な行動を制止させるよう訴えた。

蘆溝橋事件の後に出した「全日本仏教徒に告げる」では、日本は軍事行動を停止すべきであり、日本の仏教徒は慈悲の心と智慧の眼を開いて自らを救い、人を救うべきであると訴えている。

これに対して、日本仏教連合会は、今日の情勢は中国が日本に恨みや憎しみをいだいたためにもたらされたものであり、太虚法師こそ迷蒙の人々を覚醒せしめ、抗日の心理を対日提携の心理に変えてゆくべきであると返答をしている。

仏教を学び、教えに従って修行をしていても、こんな体たらくとは。
仏道の実践は至難の業ということでしょうか。

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東学農民戦争での日本軍の虐殺

2017年12月04日 | 戦争

伊藤智永『忘却された支配』は、東学農民戦争での日本軍の虐殺について触れています。
日清戦争では日本と清が朝鮮で戦い、朝鮮国民はひどい目に遭ったと世界史で習った記憶がありますが、それは正確ではありませんでした。
また、東学党の乱とは東学党という新興宗教の信者が起した反乱かと思ってたら、現在は「東学農民戦争」「甲午農民戦争」と呼ばれており、第一次と第二次蜂起があったことも知りませんでした。

そこで、中塚明、井上勝生、朴孟洙『東学農民戦争と日本』を読みました。
「東学党」という党はないし、「東学党の乱」という呼び方は、農民の決起を反乱だと見なした政府や役人の呼び方である。
第一次蜂起は朝鮮政府への蜂起だったが、第二次蜂起は日本軍と朝鮮の傀儡政権を相手にした戦争だった。
1894年(明治27年)春、圧政に反対する農民の反乱があった。
この第一次蜂起は農民軍が27か条の要求を提出して政府と和解した。

7月23日、日本軍は王宮の景福宮を襲って国王をとりこにし、ソウル城内の軍事施設を占領して朝鮮軍を武装解除、日本の言いなりになる政府に入れ換えた。
清とは、25日に豊島沖海戦、29日に成歓の戦いが行われ、8月1日に日清両国が宣戦布告をした。
清と戦争をする前に、まず国王を押さえたわけです。

戦史には、王宮から朝鮮兵に撃たれたので、やむを得ず応戦し、国王を保護したとなっています。
しかし、日清戦争開始直前の朝鮮王宮占領について、陸軍参謀本部の記録が残されています。
このことは公刊されている陸軍の日清戦史には書かれてないのです。
なぜなら、「清国が朝鮮の独立をないがしろにしている。日本は朝鮮の独立のために戦う」というのが日本の大義名分だったのに、まず最初に王宮を占領しているのはまずいからです。

そもそも日清戦争は、伊藤博文たちが反対していたにもかかわらず、陸奥宗光の策略によって起きました。
朝鮮政府を「狡猾手段」で脅し、清国兵の撤退を日本に依頼させるよう仕向けたのです。

10月、日本軍の王宮占領と国王の拘束に、全土の半分で農民が再び一斉蜂起した。
しかし、火縄銃とライフル銃、農民ばかりの軍と近代的な訓練を受けた軍隊との戦いのため、農民軍は敗退し、日本政府・朝鮮政府軍の方針で皆殺しの目に遭った。

朝鮮全体では約4千名の日本軍が動員された。
農民軍の参加者は数十万人、死者は3万~5万人と推定される。
日清戦争の死者は、日本が約1万3千人、清が約3万5千人だから、もっとも犠牲が大きかったのが朝鮮人で、その大半は日本軍に殺された。

1894年10月27日、参謀次長兼兵站総監だった川上操六少将は「東学党に対する処置は厳烈なるを要す。向後悉く殺戮すべし」という命令電報を現地司令部に送っていると、仁川兵站監部の日誌「南部兵站監部陣中日誌」に記録されている。
現地では川上操六の「悉く殺戮」という命令が実行された。

農民軍の死者は戦闘中だけでなく、捕まった後に殺されている者も多い。
朝鮮は日本の交戦国ではなかったし、仮に交戦国であったとしても、敵国の捕虜は国際法の捕虜取り扱いの慣行によって、将校であっても殺害されることはない。
しかし、東学農民軍に対して、日本政府と日本軍は国際法を意に介さなかった。

東学農民軍討滅専門部隊は後備第十九大隊三中隊で、大隊長は南小四郎少佐。
3つの街道を三中隊が南下し、「党類を撃破し、その禍根を剿滅し、もって再興、後患を遺さしめざるを要す」と命令された。
後備第十九大隊は全軍約600名は数十万名の農民軍を追い詰めて殺傷した。

南小四郎大隊長は「東学党征討略記」という記録に「長興、康津付近の戦い以後は、多く匪徒を殺すの方針を取れり」、「真の東学党は、捕ふるにしたがってこれを殺したり」と、農民兵を殺害する方針をとっている。
そして、「これ小官(南大隊長)の考案のみならず、他日、再起のおそれを除くためには、多少、殺伐の策を取るべしとは、公使(井上馨)ならびに指揮官(仁川兵站監)の命令なりしなり」と補足している。

徳島県出身の後備第十九大隊上等兵の陣中日誌が保存されている。

12月3日「六里間、民家に人無く、また数百戸を焼き失せり、かつ死体多く路傍に斃れ、犬鳥の喰ふ所となる」
1月9日「我が隊は、西南方に追敵し、打殺せし者四十八名、負傷の生捕拾名、しかして日没にあいなり、両隊共凱陣す。帰舎後、生捕は、拷問の上、焼殺せり」
1月31日「東徒(東学農民軍)の残者、七名を捕え来り、これを城外の畑中に一列に並べ、銃に剣を着け、森田近通一等軍曹の号令にて、一斉の動作、これを殺せり、見物せし韓人及び統営兵等、驚愕最も甚し」
2月4日「南門より四丁計(ばか)り去る所に小き山有り、人骸累重、実に山を為せり……彼の民兵、或は、我が隊兵に捕獲せられ、責門の上、重罪人を殺し、日々拾二名以上、百三名に登り、依てこの所に屍を捨てし者、六百八十名に達せり。近方臭気強く、土地は白銀の如く、人油結氷せり」


第十九大隊の戦死者は杉野虎吉1人。
12月10日に戦死しているのに、『靖国神社忠魂史』(1935年)には7月19日に清国軍との成歓の戦いで戦死したと記載されている。
どうしてかというと、朝鮮農民兵の殲滅作戦が隠蔽されたからです。

日清戦争では旅順でも日本軍は虐殺を行なっています。
http://blog.goo.ne.jp/a1214/s/%E6%97%85%E9%A0%86

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井上晴樹『旅順虐殺事件』

2010年05月24日 | 戦争

日清戦争の際、日本軍の旅順陥落のあと、日本軍による虐殺が数日間続いた。
この旅順虐殺事件を私はまったく知らなかった。

1894年(明治27年)11月21日、旅順が陥落した。
外国人記者の報道によって虐殺が世界中に知られ、日本政府は弁明を迫られる。
日本側の主張は何点かあるが、次の二点が主である。
・清国兵は軍服を脱ぎ、平服姿で市民にまぎれて抵抗した。
・日本兵捕虜の何名かが生きたまま火炙りにされたり、残酷に殺され、切り刻まれた死体を見て、日本軍は激昂した。
「(旅順)市街に突入した兵士は、三日前の十八日に土城子付近の戦闘で生け捕りにされた三人の日本兵の生首が、道路わきの柳の樹に吊されているのに、まず出合う。鼻はそがれ、耳もなくなっていた。さらに進むと、家屋の軒先に針金で吊された二つの生首があった。土城子付近での戦闘後、清国兵は残虐を極めて方法で傷をつけた第二軍兵士の死体を放置した。死者、あるいは負傷者に対して、首を刎ね、腹部を切り裂き石を詰め、右腕を切り取り、さらに睾丸などまで切り取り、その死体を路傍に放置したのであった」

報復したい気持ちはわかる。
しかし、日本軍は清国兵だけでなく、老人、女子どもを含む一般人も惨殺している。
井上晴樹氏は、大規模な虐殺が行われたのは上からの命令があったとしか思えないと推察している。
第一師団司令部付き翻訳官の向野堅一はこう語っている。
「騎兵斥候隊約二十名ガ旅順ノ土城子デ捕ヘラレ隊長中萬中尉ヲ初メ各兵士ハ皆首級ヲ切リ落サレ且ツ其ノ瘡口カラ石ヲ入レ或ハ睾丸ヲ切断シタルモノモアルト云フ実ニ言語ニ絶スル惨殺ノ状ヲ目撃セラレタル山路将軍ハ大ニ怒リ此ノ如キ非人道ヲ敢テ行フ国民ハ婦女老幼ヲ除ク外全部剪除セヨト云フ命令ガ下リマシテ旅順デハ実ニ惨又惨、旅順港内恰モ血河ノ感ヲ致シマシタ」
山地元治第一師団長の命令によって一般人をも殺したわけだが、「婦女老幼ヲ除ク」ことはしなかった。
大山巌第二軍司令官も住民が殺戮に遭ったことを認めている。

11月22日の状態。
「積屍山の如く、郊の内外死軀累々として腥風鼻を衝き、碧血靴を滑らして歩行自由ならず、已むを得ず死人の上を歩めり」
法律顧問として従軍した有賀長雄は「死体ノ総数ハ無慮二千ニシテ其ノ中五百ハ非闘戦者ナリ」と書いている。
「そこには、至る所に死体があり、ことごとく、まるで獣に噛まれたように損なわれていた。商店の屋並みには、そこの店主たちの死体が道端に積み上げられていた。(略)首を刎ねられている死体もあった。首は二、三ヤード先にころがっていて、一匹の犬がその首を囓っていた。その様を歩哨が見て笑っていた。歯のない白髪の老人が、自分の店の入口のところで、腹を切られ、腸を溢れさせて死んでいた。男たちの死体の山の下には、苦悶と嘆願のないまぜになったような格好で、女が死んでいた。女や子どもの死体があった。(略)白い髭の皺だらけの老人が喉を切られ、また目と舌を抉り取られていた」
そういう状況なのに、ある軍曹は父親への手紙に「市街には敵の死屍山をなし居る様痛快の極に御座候」と書いている。

それでも、占領直後の虐殺ならまだ言いわけもできる。
しかし、虐殺は25日まで続けられたのである。
11月23日に旅順に入ったある士官の手紙によれば、
「市内は日本兵士を以て充満し支那人は死骸の外更に見当たらず此地方支那人の種子は殆んど断絶せしか」という状態だった。
ある上等兵が友人に出した手紙の一節。
「予は生来初めて斬り味を試みたることゝて、初めの一回は気味悪しき様なりしも、両三回にて非常に上達し二回目の斬首の如きは秋水一下首身忽ち所を異にし、首三尺余の前方に飛び去り、間一髪鮮血天に向て斜めに迸騰し」
捕まえた清国兵は捕虜にせず、殺している。
有賀長雄は外国人記者たちと会話の中で「私どもは、平壌で数百名を捕虜にしましたが、彼らに食わせたり、監視したりするのは、とても高くつき、わずらわしいとわかったのです。実際、ここでは捕虜にしてはいません」と言っている。
掠奪もなされた。
旅順陥落より前の平壌の戦いでも「平壌分捕の金銀十六函を大本営に廻致し」ているとのことで、軍をあげて組織的に強奪していたわけだ。

「タイムス」のコ-ウェン記者は「清国兵によって戦友を切り刻まれた兵士たちの激しい憤りに対しては、ある程度許容がなされるべきであろう。憤りは、完全に正当化される。つまり、日本人が憤激を感じたのは、しごくまともなことだ。しかし、何故、彼らは全く同じ方法で、憤りを表さなければならなかったのだろうか。それは、日本人の心が、清国人のように野蛮であるからなのだろうか」
と書いている。
野蛮なのではなく、戦争とはそういうものなんだと思う。
南京大虐殺肯定派の藤原彰氏は『中国戦線従軍記』に自分の戦争体験を書いている。
藤原彰氏は1941年に陸軍士官学校を卒業して、中国へ。
1945年1月、「小さなのはずれで、一人の若い中国兵に大声で話しかけられた。彼は部隊が後退するときに取り残されたらしく、寝呆けていたのかもしれない。何を言っているのかわからないが、私のすぐそばまで近寄ってきた。私は無言で、軍刀を抜いて、彼の肩に斬りつけた。しかしあわてていたのか刃が立たず、彼が厚い綿入れの服を着ていたこともあって、恥ずかしいことに軍刀は跳ねかえってしまった。結局彼の肩を殴りつけたことになった」
南京でも、あるいはイラクでもどこでもそうだが、戦争というものは人間性を失わせる。
ごく普通の庶民だったはずの兵士たちはいつの間にか死体を見ること、人を殺すことに慣れて、何とも思わなくなったのだろう。
また、殺人や死体に対して不感症にならなかったら、いくら戦争だとはいっても人を殺せるものではないと思う。

もちろん日本だけが虐殺をしたわけではない。
ヨーロッパ諸国だってアジアやアフリカで大規模な虐殺を行なっているし、日清戦争と同じ年にトルコはアルメニア人を虐殺している。
問題はそのあと、事件にどう対処し、同種の事件を防ぐかだと思う。

旅順虐殺の責任者を処分すれば、軍司令官を更迭しなければならないが、それでは軍の士気沮喪をまねくし、政府に対する軍の反撃があるかもしれない。
伊藤博文首相は「この儘不問に付し専ら弁護の方便を執るの外なし」と、責任逃れの弁明に終始した。
当時の新聞は、旅順虐殺に関する欧米の報道に猛反発し、逆に清を非難している。
ところが台湾出兵の時でも、台湾の住民が「日本兵士による姦淫、惨酷、暴虐は天も日もなし」と訴えている。
1898年から1902年までの5年間に、台湾で叛徒1万2000人を処刑もしくは殺害したと、日本は公式に認めた。

佐谷眞木人『日清戦争』に
「旅順虐殺事件は、事実関係の糾明がなされないまま不問に付されて闇に葬られた。国際社会もまた、この事件を忘れていった。
このとき、きちんとした事実解明と関係者の処分がなされていれば、事件はこの後の日本にとって有益な教訓になったことと思う」
とある。
結局のところ、政府、軍、マスコミは以後も同じことを繰り返すことになったわけである。

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