夢という文字に「イ」をつけると儚いという言葉になると、以前、書いたことがあります。人がみる夢というのは、儚いものであるというと、何だか世智辛く、それこそ夢も希望もないという暗澹たる思いがします。
新しい社会人を目指して、世間の荒波に飛び込もうという若者たちが就活を始める時期となりました。しかし、その実態は、ブラックだの、派遣だのと、自分の夢どころではなく、それこそ生活をしていくためだけで精一杯。仕事を選んでいる場合ではないと右往左往している若者たちがたくさんいます。
夢は、いつから儚いものになってしまったのでしょう。「念ずれば花開く」と詩人坂村真民はいいました。夢は叶うものではなく、実力で勝ち取るものとなりました。そして、そこには、勝ち組、負け組という言葉が生まれ、ニートや引きこもりといった若者の生き様が見え隠れするようになってきたのです。
最近のデータでは、いじめの件数は減ってきましたが、不登校の児童や生徒が増えているというデータがみられます。若年層の理由のはっきりしない自殺も増加傾向にあります。
あまりに現実化したこの社会の中で、若者たちが熱く語れる夢がもてる社会の実現がいま求められていると思います。
夢をもつといえば、若者だけの問題とも言えません。長年社会に尽くしてきた高齢者の方々の老後の問題も夢の実現という意味では、儚い状況にあります。唯一の頼みの綱である年金制度への不安。伴侶を失った後の孤独死の問題。認知症や病気への不安など、ことさら夢の実現とは程遠い状況が目の前の現実として現れています。
私たちは、夢をもつということを理想の生活や理想の生き方に近づくことだと思っています。しかし、頭の片隅では、その夢がかなうとは信じていない自分もいます。宝くじを買うのと同じで、夢はもつものであって、叶うものではないと内心思っているのでしょう。
昔の教え子の卒業文集の寄せ書きに何かを書いてほしいといわれて、「夢を目標に」と書いた覚えがあります。何気なく書いて、私自身も半信半疑だったのですが、その言葉を胸に刻んで、本当に夢を叶えた子がいました。「サッカー選手になる」という夢のような話ですが、その夢を目標にして、努力して、本当にフットサルの選手になった教え子がいました。私が一番驚きましたが、念ずれば花開くのです。
儚い夢であっても、夢を目標にし、目標を努力に変えて、努力を楽しみながら生きていきましょう。