三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

藤原聖子『世界の教科書で読む〈宗教〉』(2)

2015年10月25日 | 

世界のニュースを見ると、原理主義が世界を覆っているように感じます。
実際のところはどうなのでしょうか。

藤原聖子『世界の教科書で読む〈宗教〉』に、世界には宗教を重視している人たちが多いのは最近の新しい現象とみるほうがあたっている、とあります。
20世紀の中ごろまでは、宗教は近代化とともに衰退する(世俗化する)と予想されていた。
ところが、1970年代から徐々に世界各地で伝統的な宗教が盛り返す現象(宗教回帰)が起きた。

なぜ伝統的な宗教に戻ろうとする人々が出るのか。

現代的価値観は、なによりも自由を重んじます。しかし、だれもが自分の好きなことや利益を求め、勝手にふるまうなら、社会は成り立たなくなります。それを止められるのは、人間の欲望を抑える、昔ながらの信仰心だと思った人たちが、宗教を見直すようになったのだと考えられます。

伝統的な道徳が失われ、秩序が乱れることに危機感を持った人たちが宗教を重視するようになったというわけです。
このことは厳罰化を求める動きと共通するように思います。

もう一つ、自由からの逃走ということがあります。
近代化がもたらした自由という状況を、夢があっていいと受けとめる人がいれば、なんでも自分で決めなくてはいけないことプレッシャーに感じる人、面倒に思う人もいる。

こうした、自由があたりまえの社会のなかに最初からいると、自由を享受するというよりも、自分はどう生きていったらいいのかと不安を覚えたり、自分らしい生きかたって何なのか(自分のアイデンティティは何か)と悩んだりということになりがちです。そんなときに、信頼できる人から、「あなたはこういった人間ですよ」「こう生きるといいですよ」と指示してもらえたら、気持ちが軽くなるのではないでしょうか。そうやって外枠を決めてもらえた方が、いいかえれば縛りをかけてもらう方が、自分の負担が減るために、逆説的にも自由な気分になれるということです。
現代社会であえて宗教を選ぶ人たちは、そのような確かな指針を求めているのだと言えるかもしれません。


ヤスミラ・ジュバニッチ『サラエボ,希望の街角』では、主人公と親しかった夫婦が原理主義に傾倒し、妻はチャドルで全身を覆っています。


これで思いだしたのが、大学では私服なので、何を着たらいいのか、ファッションに興味のない私はいつも悩み、高校のころは制服だったから楽だったと、似たもの同士で話したものです。
何らかの制約があったほうが自分で選択をせずにすむから、ある意味楽なわけです。
宗教は人生を根本的に、全面的に規定するものであり、だからこそ、社会が自由になりすぎると、その反動として宗教に向かう人々が次々と出現するのだろうと、藤原聖子氏は説明します。

「フリーダムニュース」にカツさんの話が載っています。

今までは自分の嫌なことはなにもせずに、クスリに逃げるという生活を続けていたせいで、ずっと一人で妄想の世界の中で生きてきたんで、しらふでこう、この現実にどう対応していったらいいのかわからない。自分に何ができて、何ができていないのか、わからない。

宗教も一種の依存なのかもしれません。

コメント
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