メル友の青草民人さんに久しぶりに書いていただきました。
これからは一ヵ月に一度は青草民人さんの文章を載せる予定ですので、乞うご期待。
女人往生についての話が気にかかり、自分なりに調べてみようと思いました。
蓮如上人の『御文』の中に次のような文章がありました。
それ女人の身は、五障・三従とて、おとこにまさりてかかるふかきつみのあるなり。このゆえに、一切の女人をば、十方にまします諸仏も、わがちからにては、女人をばほとけになしたまうことさらになし。しかるに阿弥陀如来こそ、女人をばわれひとりたすけんという大願をおこして、すくいたまうなり。このほとけをたのまずは、女人の身のほとけになるということあるべからざるなり。これによりて、なにとこころをももち、またなにと阿弥陀ほとけをたのみまいらせて、ほとけになるべきぞなれば、なにのようもいらず、ただふたごころなく、一向に阿弥陀仏ばかりをたのみまいらせて、後生たすけたまえとおもうこころひとつにて、やすくほとけになるべきなり。(略)
蓮如上人のいう大願が『大無量寿経』の第三十五願女人往生の願です。
たとい我、仏を得んに、十方無量不可思議の諸仏世界に、それ女人あって、わが名字を聞きて、歓喜信楽し、菩提心を発して、女身を厭悪せん。寿終わりて後、また女像とならば、正覚を取らじ。
女性が仏になる、成仏することは、『法華経』の「提婆達多品」の中にも書かれています。
釈尊の弟子の舎利仏は、求法者に匹敵すると文殊菩薩が賞賛した竜女という女性に、不信感をもって語ります。
女性は、「女身垢穢 非是法器」(女身は垢穢にして、これ仏法の器に非ず)として、仏法による成仏の対象とはなっていない。
また、さらに、「女身の身には、猶、五つの障りあり、一には梵天王(護法神)となることを得ず、二には帝釈(護法神)、三には魔王(悪魔の支配者)、四には転輪聖王(偉大な帝王)、五には仏身(仏の身)なり。云何んぞ、女身、速やかに成仏することを得ん」として、女性の成仏は認められないと。
しかし、竜女は舎利仏の前で、自分が捧げた宝珠を釈尊が受けたことを語り終えると、たちまちの間に男子の姿に変わり(サンスクリット原典では、性器が変化したと表現されています)、さとりをひらいて、仏となったといわれています。
変成男子(へんじょうなんし)という言葉がありますが、女性は一度男性になってからでないと成仏できないということになっています。
女性に対する差別的な地位を仏教そのものも変成男子という言葉でしかカバーできない古代インドの実情があったのではないかと思います。
三従(さんしょう)といわれる女性に対する不条理(生まれては親に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従う)も『マヌ法典』という古代インドの法律のようなものに書かれていたしきたりだったのです。
カースト制度といった厳しい身分制度のある古代インドで、仏教は平等を説く教えであったにもかかわらず、女性に対しては依然として差別的な表現を拭えなかったのでしょう。
しかし、女性の成仏は阿弥陀仏によるということが、『法華経』の薬王菩薩本事品の中にも書かれています。
『法華経』を聞き、教えの通り修行することによって阿弥陀仏の浄土に生まれ、成仏するとされています。
日蓮上人は『女人往生抄』という文章をお書きになっていますが、女性の成仏は阿弥陀仏の浄土への往生によるとしています。
ただ、その根拠を念仏とはせず、『法華経』による修行としているところが浄土教との違いです。
日蓮上人は、『法華経』にくらべれば、『大無量寿経』の説く女人往生は、大石を小船に載せ、大鎧を弱兵に着せるようなものだと書いています。
立場の違いこそあれ、阿弥陀仏が女人往生の道を開き、すべての衆生を成仏させると誓願されたことは、一乗(一切衆生の成仏)を説く『法華経』にも本願往生の浄土の経典にも共通しているという仏法の奥深さを感じます。