梵天勧請については竹橋太「本願」(『親鸞』)でも論及されている。
「釈尊は成道後、説法を躊躇した。自分のさとった法、真理をことばで説いて、人に理解させることは困難である、と考えたのである」
ここまでは小川一乗師と同じ。
では、なぜ教えを伝えることは困難なのか。
「法は「釈尊が他の人間に伝えるもの」である。これは私たちには当たり前の考え方である。実はこれそこが法に出会った人間が陥る大きな落とし穴である。事実、法は伝えようとしても「伝えられない」のである。法は「伝わる」ものなのである。自分が伝えようとしたときには「法」ではなく「法という想」、分別つまり、自分の考える法において伝えることになる。そのことを知り、分別を離れるというのが般若波羅蜜・智慧である」
伝えようとすることは分別だから伝えられない、これは釈尊はヒューマニズムに絶望したという小川一乗説よりもうなずける。
私=仏がいて、法を伝えるべき人がいて、私が法を伝える、ということ、そしてそれは不可能であるということ、これが聖道門と浄土門との違いである。
「私がいて、何かをするという実践のあり方であって、それを「聖道門」と親鸞は表現する。同じすくわれないあり方であるが、すくわれないという事実を知らないあり方なのである。自己の延長にすくいや、さとりをおいていることに気付いていないあり方である。それ故、自分はすくわれないとは思っていないのである」
では、教えを聞くとはどういうことか。
「「仏と出会う」とは直接対面することを意味するのではなくて、「この方が仏である」と理解・感覚することである。相手が仏であるとわかることは、同時にこちらは迷っている者であり、そこから出ようとしている自分がいることを知る、あるいはすくわれたいと感じている自分を知るということでもある。仏と自らの迷いとが、同時に存在しなければならないのである。そこには喜びもある」
無知であり、迷っているからこそ救われる、すなわち煩悩即菩提、生死即涅槃である。
舎利弗は「もし仏がこの世に出現しなかったならば、私は無知なままで生涯を終わらねばならなかったろう」と語ったと『大毘婆娑論』にあるそうだが、教え(=仏)に出会うことで愚者という自覚が与えられる。
「真と偽、つまり仏と凡夫、本願と迷いとが同時にしか成り立たないということが「縁起」ということであり、「生死即涅槃」ということである。すくいという出来事が起きるとき、すくう者とすくわれる者は同時に存在する、生まれるのである」
縁起について竹橋太師はこう言う。
「我々自身が縁起したものである以上、実は何一つ自分のものなどないのである。与えられたものの集積が「私」である。縁が私になっているのであって、私が縁を受け取るのではない。そういう縁起した人間のあり方は「仮」と表現される」
「生きている人生こそが自分自身なのであって、自分がいて人生を生きているのではないということである。しかし、それは私たちには基本的には不可能なものの見方なのである。いつも外から自分自身を眺める構造は克服できない」
梵天に勧請された釈尊は法を説くことにする。
「すくいを求める心、仏になろうとする心に触れることによって、自らの願は、その菩薩個人がなしたものではないことに菩薩自らが、気付くということである。
それに気付くことができたときに説法の躊躇が克服され、菩薩は求道において「不退転」になるのである」
正直、よくわからないところが多々あるものの、何となく刺激を受けつつ納得したのでした。