三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

『おくりびと』と『納棺夫日記』1

2009年09月21日 | 問題のある考え

私のあやしい人を見分けるリトマス試験紙は江原啓之氏である。
江原啓之氏をヨイショする人はあやしい。
田口ランディ氏や大谷派御遠忌テーマをほめるかどうかというリトマス試験紙は、ニューエイジ・スピリチュアルを知っているかどうかを判定する。
先日、A氏とB氏と話していて「田口ランディはニューエイジだ」「ロハスはニューエイジだ」という話になって、ついうれしくなった。
両氏ともニューエイジにはまったことがあるので、そこらがぴんと来るわけである。
もっともそれは感覚的なもので、どこらへんがニューエイジなのか、他人に理解してもらうためには言葉で説明しないといけないのだが、これが難しい。

「真宗教団連合40周年共同宣言」にこういう文章がある。
「死への不安
 しかも、経済的繁栄のただ中にいたときは、ひたすらこの世の繁栄に目を奪われ死を無視していましたが、昨今では、この世の繁栄だけでは解決されない「死すべき身」としての死に目が届くようになってきています。例えば、死んでも自分の生命は無に帰することなく、過去・現在・未来に生き続けているという輪廻転生にも似た生命の循環が美しく物語られたり、また、死者は姿を変え、形を変えて自分を見守っていてくれると、死者との連帯を持つことによって、愛する人の死への悲しみを癒そうとする詩などが人びとに感動を与えている時代となっています。しかし、このような物語や詩による癒しは、単なる一時的なものでしかありません。そこには、相変わらず死の闇が漂い、根源的な「いのち」のあり方への目覚めによる確かな救いはありません」
この文章はスピリチュアル批判だと言っていい。

あるいは、「真宗」7月号の「真の人間解放の道とは」という文章。
「「千の風になって」にしても、「おくりびと」にしても、浄土に生まれたいと願う者にとっては、違和感のある作品であることは承知しています。(略)今日の時代状況のなかで、人々がどのような心で生死を捉え、何を求めているかをうかがい知るうえで、こうした作品は重要であります。(略)
「千の風になって」は別れを受け入れたくない絶望感をやわらげ、不安感を解消する一つの手立てであるかもしれません。「おくりびと」によって見事に変身した死者でなければ、向き合えないかもしれません。しかし、ともに人間の願望が導き出した答えでしかないと思われます」

この文章もひょっとしたらニューエイジ・スピリチュアル批判かもしれない。
とはいうものの、私は『おくりびと』にスピリチュアル的なものは感じない。

だけど、問題はそのあと。
「親鸞聖人が求められ、明らかにされた「生死出ずべき道」こそ、真の人間解放の道でありながら、そのことを人々に伝え切れなかったという点を率直に認め、私たちにはあらためてそこからの出発が求められていることを痛感します」
では、「根源的な「いのち」のあり方への目覚め」とは何なのか、「真の人間解放の道」とはどんな道なのか。
定型句を並べることでわかったような気になり、そこらを曖昧なままにすると、ニューエイジ・スピリチュアルに取り込まれてしまう。

「真宗」7月号と一緒に送られてきた宗祖親鸞聖人750回御遠忌リーフレットには、『おくりびと』の原作者である青木新門氏の短いエッセイも載っている。
『おくりびと』に違和感はあっても、青木新門氏はまた別ということか。
青木新門氏の文章にこうある。
「彼(本木雅弘)はインド・ベナレスで「ここでは生と死があたり前のようにつながっている!」と実感したという」
どういう意味で本木雅弘氏は「つながっている」と実感したのだろうか。
青木新門氏はこの言葉をどのように受け取ったのだろうか。
私は青木新門氏の文章にスピリチュアル的なにおいを感じてしまうのでした。

コメント
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