「脱カルト協会報」第9号の櫻井義秀「「カルト」と暴力―オウム真理教の教団戦略とその破綻―」という論文を読み、オウム真理教の教義が暴力を生み出したと私は考えていたのだが、単純すぎると思った。
「世界観や教説が直接的に暴力を生み出すという議論はそれほど妥当なものではない」
と櫻井氏は言う。
「これまでオウムの暴力を説明する際に使われてきたオウムの教義や教説は、暴力の起源というよりも、暴力の行使を正当化した言説として見た方がよい」
つまり、「教義→暴力」ではなく、「暴力→教義」ということである。
なるほど、暴力団が抗争するのは理屈からではなく、そもそも彼らは暴力によって問題を解決しようとする傾向があるからである。
連合赤軍でも武装闘争、暴力革命を標榜していたわけで、暴力に親和的だった。
仲間をリンチによって殺していく中で、森恒夫はリンチを正当化するために共産主義化理論を言い出した。
オウム真理教の場合、櫻井氏によると、
「暴力を生み出したものは、教祖や側近の弟子たちが抱いていた教団発展の願望と現実との落差、それを弁明するために作り出された教説と悲観主義の時期に採用された教団戦略ではなかったのか」
ということになる。
自分は人類を救済しようとしている、その能力があるんだという傲慢さ、なのにみんなは理解してくれないという被害者意識。
1990年2月の衆議院選挙落選から、迫害されているという被害者意識、社会に対する敵視がより一層強まった。
オウム真理教のように霊性が云々、地獄がどうしたとエリート意識たっぷりに説いている幸福の科学が、これまたオウム真理教のように国政に打って出るのだが、今の状勢では全員落選の可能性が高いらしい。
どうなるのかと心配になる。
でもまあ、人類なんて滅びたほうがいいというニヒリズムに共感する人は結構いるのではないか。
地球の環境を本気で守ろうと思うのだったら人間がいなくなるのが一番だと、酒の席で言ったりするし、テリー・ギリアム『12モンキーズ』は、地球のために人類を滅ぼそうとした話だし。
こうした願望と現実の落差によって生まれた悲観主義が、教団経営と教義との矛盾と結びついた。
どういうことかというと、櫻井氏によれば、宗教教団は多くの在家信者が少数の出家者を支えるという構造になっている。
タイの場合、人口の約0.6%が僧侶を、国民の95%が支え、寺院を維持している。
在家教団でも事情は同じで、創価学会の幹部・本部職員は数千人(出版事業や墓苑事業唐は収益事業なので除く)、信者総数の0.1%程度である。
一般市民に対する違法な資金調達(霊感商法など)を公然と行ってきた教団は統一協会ぐらいなものだそうだ。
ところが、1995年のオウム真理教では、出家者の割合は約10%(出家1,600人ほど、在家15,000人ほど)である。
「同教団(オウム真理教)の出家主義には、出家者を支えるに足る十分な教団内の在家信者や一般社会の布施者を欠くという限界があった」
一般の人が入信して在家信者として出家者を支えるのでなければ、教団の財政は破綻する。
だったら在家信者を増やせばいいようなものだが、在家信者は出家信者になるための前段階だから、出家者を支える在家の数は減少する。
こういう矛盾がオウム真理教にはあった。
「一般信者を欠き、教団専従者主体の教団を形成しようとすると様々な矛盾が発生することになろう。筆者が教団の「カルト」化の契機と考えるのがこの点である。一般社会に支えられず、教団の一般信者にも支えられない規模の専従者からのみなる教団は、日本において安定的な教団の成長・発展は望めない」
そこでどうなったかというと、
「教団の資金調達の矛先は信者に対する徹底的な資産・労力の搾取に至る」
そして、「教団発展戦略の矛盾を外部の一般社会に責任転嫁し、社会と敵対的関係に教団を追い込むことで、教団の求心力を高めようという教団も稀に出てくる。オウムはその典型例であった」
なるほど、こういう視点があるのかと驚きでした。