三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

服部龍二『広田弘毅』

2009年08月16日 | 戦争

小学6年生のころ、新聞の縮刷版を見ると、東京裁判の判決が下った日の記事があり、絞首刑を宣告された瞬間の被告たちの写真が載っていた。
その中で、広田弘毅は人の良さそうなおじいさんという感じで、一体どういう悪いことをしたんだろうか、信じられないと、小学生の私は思った。

それから20年ぐらいして城山三郎『落日燃ゆ』を読み、広田弘毅はやっぱりいい人だったんだと思った。
人間味あふれ家族思いの高潔な人物、近衛文麿や松岡洋右の代わりに絞首刑になった悲劇の人物、東京裁判では沈黙を守って超然として死刑判決を受け入れた…、そういうイメージが『落日燃ゆ』によって作られた。
ところが服部龍二『広田弘毅』を読み、考えが変わった。

服部龍二氏は広田弘毅に対してかなり厳しい。
たとえば、盧溝橋事件の際、外相の広田の煮え切らない態度に外務省の部下は失望している。
石射猪太郎東亜局長は日記に「広田外務大臣がこれ程御都合主義な、無定見な人物であるとは思わなかった」とまで書き、石射は辞表を提出した。
「このころの広田は、大陸に矛先を向ける陸軍と、それを支える時流に抗する気力を失いつつあった」
と服部龍二氏は言う。

広田弘毅が絞首刑になった理由の一つが南京事件である。
「そのころ日本の占領する南京では、いまわしい事件が起きていた。南京事件である。もちろん広田は、南京事件の情報を外務省出先から得ていた。上海に避難していた福井淳南京総領事代理が南京に戻ったとき、福井が最初に送った現地報告は南京事件についてであった。さらに岡本季正上海総領事が、書面で南京事件を詳報した。そのほか、南京駐在の外国人で組織された南京安全区国際委員会からの抗議も、南京総領事館を経由して外務省の本省に寄せられた。東亜局第一課の部屋には、報告書や写真が山積みとなった」
驚いた広田弘毅は陸軍省軍務局に厳重注意を申し入れたし、杉山陸相に軍紀粛正を要望したが、閣議では南京事件を提起しなかった。
そのため、「閣僚の多くは南京事件について知らされずにおり、のちの東京裁判では広田の「犯罪的な過失」とみなされたのである」
広田弘毅の後に外相になった宇垣一成は「広田の無為無気力」「無為無策」と日記に書いている。

そして、1942年11月29日の重臣会議で、対米開戦もやむなしという重臣の一人が広田弘毅であり、昭和天皇は「全く外交官出身の彼としては、思いもかけぬ意見を述べた」と冷評している。(『昭和天皇独白録』)
政治学者の猪木正道は「駐日ドイツ大使に条件を示して和平のあっせんを頼みながら、南京攻略後の閣議では、真っ先に条件のつり上げを主張するなど、あきれるほど無定見、無責任である。城山三郎氏の『落日燃ゆ』には、広田のよい点が強調されているが、一九三六年のはじめころから、広田は決断力を失ったのではないかと思う」と批判している。
猪木正道の本を読んだらしい昭和天皇は首相だった中曽根康弘にこう語っているそうだ。
「猪木の書いたものは非常に正確である。特に近衛と広田についてはそうだ」(岩見隆夫『陛下のご質問』)
オフレコでの発言がこういう形で公になるのだから、昭和天皇も大変である。

東京裁判で証人台に立たなかったのは広田弘毅だけではなく、9人いる。
「もしも広田が証人台に立っていたらどうだろうか。検察側は、日中戦争初期に兵力の動員を閣議決定したことや、南京事件を閣議に提起しなかったことを追及し、広田はこれを認めざるをえなかったであろう。
証言台に登らなかったことが美談のようにいわれるものの、仮に広田がみずから証言していたとしても、有利に作用したとは限らない」

と服部龍二氏は言う。

広田弘毅は首相の器ではなかったのかもしれない。
服部龍二氏は次のように厳しい評価を下している。
「広田は、二・二六事件後の組閣などで粘りをみせたにせよ、総じて首相や外相のときに命を賭するような態度に出なかった」
「悲劇の宰相とみなされがちな広田だが、破局へと向かう時代に決然とした態度に出なかった。広田が悲劇に襲われたというよりも、危機的な状況下ですら執念をみせず消極的となっていた広田に外相や首相を歴任させたことが、日本の悲劇につながったといわねばなるまい。
あの戦争の責任を広田にだけ負わせるのはもちろん公平ではないし、極刑は過酷だったと思うが、少なくとも責任の一端は広田にあったと考えざるをえない」
「広田はむしろ軍部に抵抗する姿勢が弱く、部下の掌握もできずにおり、そしてポピュリズムに流されがちであった」

ポピュリズムということだが、大衆に迎合する政治家は今も少なくないし、またそういう政治家は人気が高い。
「時代の先行きがみえなくなったとき、ともすると人心はカリスマ的な指導者を待望し、軍事力による国威の発揚を求める。国民に祭り上げられた指導者もまた、脆い政治基盤と責任感のなさから大衆に迎合しがちとなる。だが、強硬策によって政権を維持したとしても、それは一過性のものにすぎない。やがてそのつけは、政府だけでなく国民にも重くのしかかっていく」
こうしたポピュリズムの例として服部龍二氏は近衛をあげているが、小泉元首相も似たようなものだし、橋下知事、東国原知事人気も同じ。
衆議院選挙を控え、各党とも人気取り公約をぶち上げているが、考えてみると危険なことだと思う。

「(広田が外相を辞任した)このようないきさつは、軍部の暴発に広田が押し切られたという図式だけで説明しうるものではなく、高揚する世論に靡いたところが大きい。しかもその世論は、少なからず近衛内閣がたきつけたものであった。ただでさえ国民は、非常時であるほど長期的な見通しよりも感情に流されがちである。そのようなときこそ外交指導者は、勇気をもってポピュリズムや世論から距離を保たねばならない。しかし広田の外交は、強い意志を感じさせるものではなく、むしろ日中戦争が長期化する一員をつくったといわねばなるまい」

服部龍二氏自身も『落日燃ゆ』を読んで広田弘毅に関心を持ったという。
「しかし、研究に着手してみると少しずつ違和感を覚えるようになり、やがて同書への畏敬の念は薄らいでしまった」
『落日燃ゆ』は事実と違っている部分がかなりあるそうだ。
「歴史小説で主人公を同情的に記すのは自然だとしても、そのような小説が日本人の広田像となり、ひいては日中戦争や東京裁判に対する国民の歴史観を形成してきたとすればどうであろうか」
司馬遼太郎の小説にも当てはまると思う。

コメント (2)
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