三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

ニューエイジ・スピリチュアルの霊魂観(4)

2008年09月11日 | 問題のある考え

実体的いのち・こころ観はグノーシス主義やインド思想の梵我一如と通じると思う。
日本の宗教観では、死んだら霊魂となり、霊魂が次第に清まってやがて先祖霊と一体化し、さらに清まると氏神になると説くが、これも似ている。
手塚治虫『火の鳥』の最後、火の鳥にすべての生命が一体化するのも同じ。

仏教は梵や我という不変の実体を否定するから、実体的いのち・こころを説いたら仏教とはいえない。
しかし、実体的いのち・こころ観を説く宗派もある。

日蓮宗に霊断師会というのがあり、霊断師に相談すると、九識霊断によってすべての悩み事に答えが与えられるそうだ。
霊断師会のHPではこのように説明されている。

我が日蓮宗霊断師会には創祖・高佐日煌聖人の創始による、九識霊断法という秘法があります。
これは日蓮大聖人の遺された有り難い秘法で、法華経の信仰を具現化したものです。
レーダーが霧や雲を透して物の位置を正確に捉えるように、我々の運命が手にとるようにわかります。
九識霊断法とは、南無妙法蓮華経のお題目の神秘と、人間が誰でも持っている九識によって我々の運命を予知する秘法です。この霊断により、困ったとき、迷ったとき、決めかねているときなど、人生のいろいろな場面で遭遇する運命の真相を知り、その運命を好転させることができるのです。


唯識では六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)、そして深層に末那識、阿頼耶識の八識を立てるが、天台宗や日蓮宗ではさらに下に阿摩羅識(仏性)を加えて九識とする。

九識は心の一番奥にあってすべての人に通じており、九識に至れば他の人の心を知ることができるし、過去や未来もすべて明らかになると説明される。
自分が死ぬ日時までわかるそうである。

浄土真宗でも梵我一如的な話をする人がいる。
教化冊子「お盆」2008年版に載っている写真に、「大気のなかでトンボも草も、光と出会って願っている」「西からの気配のような夕の光が、ただ、語りかけてくる」という「心のノート」的な説明文がついている。

「心のノート」は河合隼雄氏が中心となって作った道徳の副読本で、スピリチュアル的な内容である。
河合隼雄氏は「たましい」という言葉をよく使うが、「たましい」とは、個人の霊魂であると同時に、すべての存在と通じ合う霊魂でもある。

弓山達也「現代人の生命観とスピリチュアリティ」(「親鸞仏教センター通信」26号)にこういうことが書かれてある。

『心のノート』(文部科学省)は、国によるスピリチュアル教育の典型例であると考えています。文科省の言う、「目に見えないものを大事にする」とか「あらゆる宗教に共通する普遍的な宗教心」という文言こそ、まさにスピリチュアリティと呼べるわけです。(略)そこでの「いのち」観とは、生命は自分のものであるが、与えられたという意味で、自分のものだけでないという「与えられたいのち」観、人間の生命とは、宇宙や自然や人間を超えた大いなるものと「通じ合ういのち」観、そこでの「いのち」は、輝かせることが使命・目的とされる「輝くいのち」観です。


「お盆」にはこんな文章が書かれている。

「臍の緒」、それは自分のいのちがしっかりと親のいのちにつながっていることの証でしょう。そしてその「臍の緒」は、限りなく長い歴史を次々とつないでいるのです。その始まりも、行きつく先も見通せないほどに長いいのちの歴史と、広い世界を内容として、私は今、このいのちを身に賜っているのです。

これは実体的いのち・こころ観である。

ニューエイジやスピリチュアルに親近性を持っている人たちに原稿や講演を依頼する真宗教団のスピリチュアル化を危惧せずには

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