ブルカといって、頭からすっぽり全身をおおう、イスラムの女性が着ている服がある。
『カンダハール』『アフガン零年』といったアフガニスタンを舞台とした映画を見ると、ブルカは抑圧の象徴として描かれている。
男装して工事現場で働く少女が主人公の『少女の髪どめ』でも、映画のラストで少女がブルカをかぶる。
他者との関わりを断つように。
でも実際はそうじゃないらしい。
某氏より中村哲「絶望から希望へ」という冊子をいただいた。
中村哲氏は20年間パキスタン、アフガニスタンで医療に従事しながら、井戸や用水を作り、人々が自分の住んでいるところで暮らせるように働いておられる。
「絶望から希望へ」を読むと目からウロコがたくさんあるのだが、ブルカについてこういうことを話されている。
タリバーン政権が倒れてカーブル解放、ブルカを脱ぐ女性たちという映像が流されて、世界中が騙された。
たしかにいろんなものが解放されました。それは何が解放されたかというと、麻薬を作る自由。さらに貧乏人が自由になる自由、金持ちがますます金持ちになる自由、これが解放されたわけです。
女性も解放された。しかし、ブルカを脱ぐ女性はほとんどいない。いますけれども、知識層や富裕層の女性です。もともとブルカは現地の伝統的外出着にすぎない。
女性が解放されたというけれど、それは売春をする自由、戦争未亡人になる自由、乞食になる自由です。
たしかにいろんなものが解放されました。それは何が解放されたかというと、麻薬を作る自由。さらに貧乏人が自由になる自由、金持ちがますます金持ちになる自由、これが解放されたわけです。
女性も解放された。しかし、ブルカを脱ぐ女性はほとんどいない。いますけれども、知識層や富裕層の女性です。もともとブルカは現地の伝統的外出着にすぎない。
女性が解放されたというけれど、それは売春をする自由、戦争未亡人になる自由、乞食になる自由です。
ブルカを脱ぐことが自由の象徴というイメージは知識人のものなんですね。
確かにブルカというのは宗教に縛られて着るものというイメージが先に来てしまいますね。自分も大体そんな風なイメージを持っていました。
うちの大学にはイスラム教の方がいるようで、ブルカは着ていませんが、スカーフは身に着けています。それを見ると別に縛られているわけではない事がよくわかります。
一つちょっと自分が納得いかないところがありました。それは最後の一文です。
「日本人が着物を着ることを捨てるように、アフガニスタンの人がブルカを着なくなることが進歩なのかと思った。」
日本人が着物を着なくなった事とアフガニスタンの女性がブルカを着なくなる事というのは、進歩という事ではない気がします。それと着物とブルカではまたちょっと違うものという気もします。いきなりのコメントでこんな事書いてすいません。よろしかったら意見が聞いてみたいです。
ブルカと着物をならべて書いたのは、ブルカがアフガニスタンの民族衣装なら日本は、という連想からです。
着物じゃなくてちょんまげでもかまいません。
あるいは、平仮名や漢字をやめてローマ字にする、米を食べると頭が悪くなるとか太るとか言ってパン食を勧める、そういったことがありましたが、それも同じだと思います。
他文化の侵略と、自文化の蔑視、放棄、ということです。
西洋ではこんなことはしていないから遅れている、変えていかなくてはという脱亜入欧の価値観は、いまだに根強いし、私の中にもしっかりとあります。
それは仕方のないことだとは思います。
けれども、着物を着なくなったことで捨ててしまったことはたくさんあるわけですから、ブルカを脱ぐことも何かを脱ぎ捨てることになるんでしょうね。
もちろん私は民族主義でも、新しい歴史教科書賛成派でもありませんよ。(笑)
そういう人間から見ると服装が変わったりしていくのも、
一つの時代の流れのようなものだと思ったりします。
言葉が変わるのも、美の意識が変わっていくのも
自然な流れのように感じます。
何かを捨てると同時に何かを得ているのかもしれない。
もちろんいいものも失われていっているのかもしれないです。
ですが、古いものばかりに固執したりするのも馬鹿げているわけで、
常に歴史から学ぶ意識を持つ事でそういうことは少なくなると思います。
なんだか返事になっていませんが、
ここで終わりにさせていただきます。
ただ、どのように変化するのか。
これは難問ですねえ。