高橋哲哉『靖国問題』第一章「感情の問題」に、夫が戦死した方の陳述書が引用されています。
そこにはこういうことが書かれています。
靖国国家護持に反対する人たちが、戦死者の家族の素朴な感情を政治家は利用していることを批判することに対して、戦死者を侮蔑しているように感じる遺族がいるのでしょう。
死刑問題でもまず被害者感情が言われます。
被害者感情とは、怒り・恨み・鬱、そして復讐心だろうと我々は考えます。
テレビの討論番組で、「被害者は厳罰を求めている」とわめいたタレントがいました。
こういった感情が起こるのは当然のことです。
まわりの人はこうした感情をどのように受け止めていくべきか。
怒りや怨みは自分自身をも傷つけます。
ですから、怒りや怨みが別のものに変えられるような、そうした支援が必要だと思います。
坂上香『癒しと和解への旅』は、殺人事件の被害者と死刑囚の家族が一緒になって行っている死刑廃止運動のルポルタージュです。
娘が殺された(犯人は捕まっていない)女性アンはこう語っています。
ダニエルは復讐心を乗り越えることができず、鬱状態が続き、ついには自殺します。
子供二人を亡くしたアンはこう言います。
それではアンはどうやって復讐心を乗り越えたのかというと、子供を殺された親たちによるサポートグループに参加することが、復讐心から抜け出せるきっかけになったそうです。
坂上香さんは中2の時、学校でリンチを受けています。
憎しみ、恨み、自己嫌悪、屈辱感、自責の念、人への不信感、あきらめ、などなどが鬱積していったそうです。
その後、さまざまな出会い(リンチをした不良や見ぬふりをした中学の教師など)の中で、
と書いています。
『癒しと和解への旅』を読んで、仏の慈悲とは、そういう意志を持った超越者がいるのではなく、人との出会い、関わりの中で生まれてくるもののではないかと思いました。
家族が戦死した人のすべてが「靖国でなくてはいけない」とは思っていないように、犯罪の被害者が全員、いつまでも復讐心を抱いているわけでしょう。
一方、自分たちの活動の中から新たな施設を作ろうと一年前から準備しているのですが、住民から猛反対(コンフリクト)を受け建設が凍結し、説明会では実際に右翼の街宣車に取り囲まれたりしています。
そんな中、いまさらながら森達也という人のことが気になります。
http://www.arsvi.com/0w1/mrtty.htm
http://www.loft-prj.co.jp/interview/0203/13.html
要するに森さんは、私。。。と一人称単数で語るときと、私たち。。。と一人称複数で語るときがある。
そして、ともすれば「痛み」よりも「憎しみ」を共有して、私たち。。。と語ることだけが幅を利かせているのではないか。。。という問題提起をされてるのだと思います。
そこには常に「わたし」は痛みを受ける側であり、
被害を受ける側である。痛みを与える側や、被害を与える側にはいない、と。
引用してみます。
「日本政府は北朝鮮に対する医薬品や米などの人道支援を凍結した。その結果、何千人、何万人もの子供や老人が死んでいるかもしれない。だとしたらこれは、9・11を理由にアフガンやイラクに侵攻して、より大勢の犠牲者を出したアメリカと同じです。こうした多面性への視点は、他者への想像力とも言えます。不安や恐怖を理由に、人はこの視点を忘れてしまう。不安や恐怖は「分からない」ことから発動する。ならばメディアが健全に機能すれば軽減できるはず。ところが機能しない。危機をあおった方が、部数は伸びるし視聴率も上がるから」