『おみおくりの作法』は、ロンドンのある地区で民生係をしている44歳の独身男が主人公です。
独り暮らしの人が死んでから発見されるという孤独死がテーマ。
主人公はそういう死に方をした人がいると、身内の者や親しい人がいないかを探す。
そして、葬式には信仰していただろう宗教の教会を探し、牧師が読む弔辞(?)を書き、音楽を選び、ただ一人参列し、土葬の場合は埋葬の手配をして立ち合い、火葬の場合は骨壺をしばらく保管し、誰も引き取り手がないことを確認して墓地で散骨をする。
上司は「葬儀は生きている者のためだ。誰も葬儀をしたいと思わないなら必要がない。さっさと火葬するなり埋葬したらいい」といったことを言う。
どういう葬儀をしようと、遺体をどのように扱おうと、死んだ人は文句を言わないし、死後の世界で困るわけではない。
だからといって、島田裕巳氏が提唱する0(ゼロ)葬(葬式をせず、遺骨は持って帰らない)がいいとは思えません。
某氏からいただいた「終活読本 ソナエ 春号」に島田裕巳氏へのインタビューが載っています。
「(喪主などとして)葬式を経験した人に聞くと、『厄介なことばかり』『何でこんなに高額なのか』と口々に不満を語ります。遺族は形式的で高額な現代の葬送に翻弄され、じっくりと故人をしのぶ時間もありません。(略)」
不満を解決する手立てとして0葬を示したのだそうです。
樹木葬や自然葬は、業者に依頼して費用がかかるし、自分でするとなると負担なので、0葬がいいとのこと。
「0葬では火葬したあと、必要があれば追悼のための「お別れの会」や追善供養をやればいいのです。遺骨を引き取って墓地に埋葬する習慣は、火葬が普及した戦後にできあがったもの。それ以前の時代は、遺骨とともに供養する習慣自体がなかったのです。(略)」
だったら最初から葬式をきちんとしたほうがいいじゃないかと思います。
それと、島田裕巳氏は明らかなウソを平気で言うのですが、遺骨を墓地に埋葬する習慣は戦後からだということもその一つです。
またこんなことも言っています。
「現世を存分に謳歌した」といって、残された者の悲嘆は変わりません。
あまりにもあっさりと割り切った島田裕巳氏の発言には薄情さを感じます。
『おみおくりの作法』を見て、遺体をモノとして廃棄処分することは死者の尊厳を否定することだと、あらためて思いました。
主人公も一人で暮らしています。
自分が担当した人たちの写真を持ち帰り、アルバムに貼って時々眺める、そのシーンを見ながら、写真に写った人たちはどういう人生を過ごしたのかと私も想像しました。
死者を思い出していくことが死者の尊厳を大切にすることになると思った映画でした。
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